第七話 巡る
徘徊が始まった。
別根院領主たる至美貴の一言は律法の上に存在する。
醜下たる身にして、美貴の居住区にまで足を入れることができた。
監視として姉が付くことになったが、この足は休むことなく昼夜を歩む。在真シウミからの直の命とあっては励む姿を咎めることもできず、隊の長たる任務もある姉はすぐに同行を諦め、定期に成果を報じることを命じた。
日々黒鎧によるものと見られる死体が発見され、院内は閑散と、家に閉じこもる者が増えた。特に美貴の往来は目に見えて減った。
巡り、巡る。
日射に溶かされた脳が考えるのはあの時の光景だけだった。噴き出る血、無様な骸の美しかった者。あの時、あの瞬間だけは、連と続く生の枷から解き放たれていた気がする。
黒鎧の痕跡を見つけたのは三日目か四日目か。
朝日が出たばかりの頃、そこに一日の始まりの中で余りに場違いな醜下の姿があった。
心臓を一突きにされた後、首から上の皮を剥ぎ、顔からは肉も削がれていた。目玉の窪みは黒黒と、己の黒目を大きくさせたようであった。
酷く動悸がした。醜下であることは服の襤褸を見れば明らかである。早朝の小鳥の囀りを聞きながら、それを鑑賞することはどこか背徳的な高揚すらも齎す。
路地の奥に背を凭れかかるように置かれた屍骸への対面した時間は、どれほどであっただろうか。額が汗に覆われ、とつとつと頬を流れゆく。息ができなかった。
日輪が真上に差し掛かった頃に踵を返し、姉に報告へと向かった。
夢か現か。歩いているのか倒れているのか。
次に見つけたのは真上に日が昇っていたときである。
ソレは、明らかに男の美貴であった。
腹から下がなかった。千の蚯蚓を継ぎ接ぎしたような奇妙に長いさくら色の筒のようなものや、艶やかな黄土色のものが、上から赤を塗された状態で散っている。
二本の足は箸のようにきちんと並べられていた。絶命した顔は蒼白であり、半眼となったその眼は確かに先の醜下と同じ色をしている。
魂がそこに縫い付けられたかのように、この光景はやはり己を簡単には離してくれない。
恍惚があった。散々に弄ばれた美貴の屍骸を見て、そのことを深く刻むように、青白い頬を両手で掴んだ。
巡り、巡る。舞い、舞う。
炎天が躰を焼く。
倒れるまで歩みは止めない。狩人は何日もの不眠不休で獲物を追うことがあるという。己も同じだ。あの景色をみた時の、ああ、あの快感。脳が痺れ、躰をがっちりと掴んで離さなかったナニかが、すうと溶けていく感覚。それに、酔いしれたい。
だが、先の美貴の事から、とつと音沙汰がなくなった。
一つに警戒の強化があげられるだろう。今ではどの道に曲がろうか衛士の姿をみないことがない。まるで己の首を己で絞めたようである。
狂おしいほどに求めた。倒れるまで放浪し、倒れたらそのままそこで寝た。泥水を啜って、美貴の居住区間にて残飯を漁った。姉のエミの元に帰ることはできなかった。
この状態を見られた中断をさせられるという危惧と、それ異常の言葉にできぬ後ろめたさがあった。
酷暑には珍しく、日輪が西に、薄雲が空を覆った日。もはや方向感覚を失った己の目に、映ったのは一つの女の死体であった。
歓喜の合図である。だが、その近くに黒壇を見た時には、驚きの音の前にあらゆる感情が色を消した。
蝉の音が雲天にこだます。黒鎧もまた己を見ていた。兜から覗く目は己を物差しで測るようである一方で、黒目から白目に広がる無数の赤い線は極めて強い情を訴えているようであった。
そこもまた路地の隅であったのだろう。道の行き止まりの壁に上半身が凭れている女の死体に、黒鎧はゆっくりと視線を向け、また己に戻した。
まるでどうだ、と自慢をするような所作であった。女は醜下か美貴か分からなかった。
乱雑に刃物で躰中を突き刺された形跡が酷く、胸にある脂肪の塊が乳房らしきものであったので女と判断したのである。ここまで酷いと美も醜も見分けが付かない。
自然と足がそれに近づいた。漂う悪臭が目に染みる。花の蜜による蛾のように、息を吸い、触れる間際にまで手を伸ばした。目だけではなく、全身にて感じたかった。
だが、微かな違和感があった。美貴と醜下の判別が付かないほどに醜くなり果てた女を前にして、心はこれまで程には飲まれる気配がなかった。努めて興じなければならない体すらあった。
見つめている内に、黒鎧は消え去っていた。それに気づいた時になって初めて、己もまた殺される危機に直面していたことを自覚した。しかし、恐怖は沸かなかった。殺すわけがないと、不思議と断言できた。
それよりも、目の前のソレである。
黒鎧に再会できたことにより興奮仕切った精神を、栄養の足らぬ躰は受け止めることなぞできず、眩暈がぐるぐると、天地を回る。その中心に女の死体がある。
相も変わらず、しかし、これは傑作である。
目は釘付けにされたまま、思わず食べてしまいたいほどに……そうか、むしろ、それで良いのだ。それで十分なのだ。狂の中に混じる雑音こそ、美貴は美しく醜下は醜いというこの世の掟、であるか。ならば、それを捨て去ることができれば。
――自由。
壊れた。
不落の城が、頂きから、落ちてゆく。
涙がとめどなく溢れる。鼻腔を犯す臭いが愛おしい。唇がどこに行ったのか分からないほどに粉砕された女に接吻をする。
強烈な吐き気がした。手に壁をつけ頭を下にしたが、まともに物を入れていない躰が出したのは粘着質な汚水だけだった。
それもこれも、どれもが快楽であった。
走りだした。何か奇声も上げていたかもしれない。
幽鬼の如く。沸騰した頭で紙切れの躰を引きずり歩く。
往来に出た。そして、唐突に、馬にはねられた。
鈍い痛みが、しかし急激に胸を抉る。自我も無意識も突然の急襲に大混乱を起こし暴れまわった。強く腰を打ち付けた。
動転した眼で道を見やると、跳ねたと思われる馬に乗った美貴はこちらを一瞥することもなく、またそれは傍に就く従者も同様であった。激痛の中でなんとか仰向けになった。馬に蹴飛ばされて死ぬ醜下なぞどこにでもいる。
いつの間にか気を失っていたようで、目が覚めて見た太陽は、たまたま彼に出会えた時に同じ位置にあった。風に乗ってきた砂が口腔を覆っている。足腰に力が入らぬまま、にじりながら徘徊を再開した。
伸ばした腕に力を込めるも力なく。けれど諦めることなく、這い進む。己を轢いた美貴はいまごろ優雅に茶をすすっているのだろうか。
舞い、巡り、這い、詠う。
気絶することは三度。そこかしこに同じように野垂れている醜下がいる。躰の壊れゆく音は痛みとなりて脳天を直撃する。突風が吹くと飛ばされそうになる。
しかし、未だあの異様な興奮の火は消えてはいない。無理矢理に躰を起こし、数歩進むと倒れ、また起こし、あるいはそのまま這って。兎にも角にも、止むことなく抗い続ける。
目を瞑ると両刃の刃の煌めきを思い出す。父の首を突いたときの感触に酔う。十年前、周囲に転がっていた死体は三つ。肉を喰らう際の生臭さ。慣れたものではないか。
そうして、三度目の邂逅は、日が沈みかけた朱が空にまぶされていた時であった。
場の空気は静まりかえっていた。
喉を潰され犠牲者は、まだ生きているようであった。 持ち主が退去してから放置されていた襤褸小屋である。
黒鎧は静かに縄で縛られた獲物と向かい合っていた。己が中に入っても微動だにすることなかった。己にもそれほどの驚きはなかった。ここで出会うことが必然のように感じた。
極度の栄養の不足と肉体の酷使により、視界は擦れ、六分ほどの現しか見せてくれない。贄が男か女か、美貴か醜下か、分からない。だが、もはやそれはどうでも良いことであった。
とつ、と両刃の剣が喉を刺し、流れる小川のように臀部まで走り抜けた。音なき悲鳴が漏れる。夥しい赤が我さきにと飛び出し、その後に異臭が緩やかに場を満たす。
黒鎧は裂いた穴の内部へと手を入れた。手際よく、音を奏でるように。五臓六腑が分解されて抽出され、横一列に並べられる。それとはともすれば美しくもあった。無論、醜くもあった。
次に刃は肉と皮の境を滑り。両刃は右へ左へ、上へ下へと変幻自在に。黒鎧の一意なる様と相まって遊女の踊りのよう。一挙手一投足に魅了される。
最後に肉と骨が分けられた。犠牲者は既に物と化し、部分部分に独立して、総体としての意味を成さなかった。
突如、黒鎧は熱中していた作業から目を話した。躰をくるっと回し、己の前に来た。
眼前には院を恐怖に陥れた黒き魔物。悪夢の如き場景。鎧の隙間から漏れる殺気が、己の生殺の与奪を握っている。
だが、殺されることはないと思った。
そう確信すらしていた。理不尽なる死の強制者を前にして唯一人生き残った醜下は、一度ならず、二度ならず、三度その死と邂逅する。死に救いを、絶望に赦しを見出す心は絆さえも感じていた。
そう、黒鎧はやはり己を殺さなかった。だが、代わりにしたことがあった。
己に差し出したのである。両刃の剣を。
一瞬にて顔から血の気が引いたのが分かった。想像をしてしまった。その剣を持つ己を、それを振るう狂気を。黒鎧は差し出しながら、突きつけていた。欲望を閉じ込めた檻に一線が入る。
緊迫の幕が降りる。剣は取れない。手は動かない。目を瞑り、一心にそれを見ないようにした。刃についた血の清らかさを舐める誘惑に駆られたからである。
ついぞ差し出された誘惑には応えなかった。黒鎧は両刃を血のついたまま鞘に納めた
そこから、どうやってその場から去ったのか、憶えていない。気づけば、己は姉の屋敷の前にいた。
姉は己の姿を見るや顔を歪め、涙を流した。汚物と変わらぬ己に近づき、抱き着いた。そうして、また己は気をうしなった。




