第六話 領主
別根院は黒の幕に全体が覆われたようであった。人通りが少なく、疎らにいる者も声を潜めて何事かを囁きあっている。
馬上の姉に従うように同行している己を、別の己が躰の内部から観察しているようであった。現と幻の境界がおぼろげで、地を踏むも余りに感触がない。ただ一つ思うことは、ここは己のいる場所ではないのかもしれない、ということだ。
姉は言う。真加髪ナリト様が襲われたことはすぐに報せがきたと。
それは院の政庁までも天地をひっくり返すような騒ぎとなった。
予兆はあった。院内ではここ数カ月で数十名の醜下の遺体が確認されている。中には美貴の従僕であった者もいる。いずれも凄惨な死にざまで、生前の顔の痕跡を探すことすら難しいものだという。
だがまさか、京の美貴様の痛ましい姿を見ることになるとは。……そしてまだ、この凶事を成した人殺しがこの院の中にいるかもれない。
言葉に釣られるように改めて周囲を見ると、別根院の巨壁の存在感に圧倒された。壁の此方と彼方。これまでは此方を護る盾であった。
だが、いまやその壁は己らを閉じ込める檻のようであった。醜下も美貴も関係ない。あの黒鎧の前に立った者は悉くが、同じ運命を迎える。
姉が跨る馬は、屋敷の前に来ても歩を止めなかった。そのまま中央へと、美貴とその従僕の醜下にしか許されぬ区画へと進んでいく。
―ー領主たる、在真シウミ様に謁見をしてもらう。
その言葉は馬上の姉からのものか、天からのものか。お前はあの人殺しを間近で見た唯一人の生き証人。領主様は御自ら質されたいとのご希望だ。
心臓が急速に縮んだ。
心臓に剣を突き立てられる痛みと、美しき者の前に引きずり出される痛みの、一体どちらが耐えられぬだろうか。
野草の強風に嬲られるが如く。元より受諾も拒否も権利も持たぬ醜下。胸奥の悲鳴は躰にすらも届くことなく、拵えられた道を進み続ける。姉のその言葉を聞いてからどれほど歩いて政庁に来たのか。衛士に守られた門をくぐる時の眩暈のままに、瞬く間の内に、己は縁側の庭にて頭を地にこすりつけていた。
目の前には天上の人間。その者は半分の美貴の血を持つ姉すらも醜いと断じる美を纏っている。
否、纏っているのではない、そのものなのだ。
別根院領主、在真シウミ。美貴の中の美貴たる者であり、世界の秩序の一片たる至美貴である。
その時どのような言葉が落ちてきたのか。寝床で繰り返し思い返す。
頭蓋にこびりついて離れないのだ。だが、思い返すだけだ。心は情景に対する感情を努めて隠そうとしている。
その時は姉も額づいていた。その筈だ。言の紡ぎは天と姉にて行われた。
醜下の役割は身をできるだけ小さくして息を殺し、最大限存在を失くすことである。
天は姉を労った。平時においてよく仕えている旨と告げ、さらに京の美貴が死ぬことになったのは不幸が重なっただけであり、護衛を務めていた姉を処罰するつもりはないと仰せられた。
場の雰囲気や声の音調から姉は常より恩恵を賜っていることが知れた。身に醜い血が混じっているとはいえ、不霊を征する者として同胞と思っているとまで言われたのである。
姉が感激にて震える姿が浮かんだ。事実その通りであったろう。
姉からは己が伝えた黒鎧のことを上申した。天の視線が一度己に向いた気がした。
天は熱心に聞いているようであった。黒鎧の特徴や、殺し方について幾度も質していた。姉より事前に聞かされていた通り、それだけ、黒鎧の殺人は別根院に黒い影を落としていたのだろう。
一通りのことを申し上げ拝辞する際に、それは起こった。
ああ、あの時……己が行った所業は、鍬で父の首を刈った時よりもなお、罪深きことであった。
声を上げたのである。
醜い音が、静謐な場に淀んだ。己は姉に後頭部を掴まれ地面へ強く叩きつけられた。幾度も。額が切れ、血が流れた。姉は己を叱りつけながら懇願をした。命だけは助けてくれと。
そっと視線を上げると、近侍が刀を光らせこちらに迫ってきていた。だが、その横に映る天は……天は興味深そうに己を眺めていた。朝日の清らかさを閉じ込めたような朱の瞳は、境遇や身分、時間や感情までも一瞬忘れさせた。
申してみよ、そんな言葉が確か落ちてきたと思う。己は懸命に述べた。
黒鎧のことを最もよく知っているのは己である。だからどうか、黒鎧を探す許可がほしい。彼にまた会いたい。その思いが暴発したことの愚挙であることは、口から出てきた言葉で自身も気づいた。
熱湯の中に頭蓋が放り込まれ、くるっと上下を逆さまにされ、ぐるぐるとかき回されたよう。赤の瞳。凛と落ちる言の葉。聖を犯した汚れは、汚れ自身も慚愧に耐えられずあるべき場所に逃避をする。
だが、何と本末転倒のことか。愚挙を行った故の逃避なのか。逃避のために愚挙をするのか。
しばしの間をおいて、
「よかろう」と、天は発した。
その時の感情は、やはり表に出すことができない。




