第九話 虚空
戦が始まった。
別根院の砦には赤々とした旗が晴天にたなびき、山へと続く道は兵で埋め尽くされる。
在真シウミの力の具現化ともいうべき集団である。
一個人の意思にて八千は駆け、耐える。殺し、殺される。その中には醜下ばかりではなく美貴もいる。
糧食を背に乗せた馬を伴って隊は三日目に発った。
元より劣勢である化者は待ち伏せをしたまま最前の敵をやり過ごし、後方を攪乱することを定跡としている。特に一度は朝廷に降ったものの再び化者に寝返った灰狼という化者は俊敏な特性を活かして、何度も補給線を断ち切ることがあったという。
そのため、エミの隊は小荷駄隊として敵から荷駄を守る一方で積極的に索敵を四方に飛ばしていた。山に近づくほどに森は深まり、陰所は至る所にある。己は常にエミの傍に配置をされている。
瑞々しい緑の木々は天に熱せられ、気味の悪い湿気を纏う。
その上を這う蟲も生の腥ささを恥じることなく見せつける。草に張り付いていた黄土色の飛蝗を掴んだ。腹が異様に膨れ上がり、呼吸に合わせ小刻みに膨張と収縮を繰り返している。
真正面から顔を見たが、丸い緑の目には小さな黒の点があるだけで、そこに感情は在るとは思われない。親指と人差し指で腹を潰した。その時になって飛蝗は激しく暴れた。黒い液体が垂れた。
山の入れ口を暫く行くと開けた場所にでた。村として使われていた場所だろう。既に焼け落ちているが家々の痕跡が並んでいる。
元々は化者の住処の一つであったのだが、戦争の始まりに際して放棄された。今は征討軍の重要な中継地点となっている。化者が逃げる時に自ら村に火をつけたのだと、姉はぽつりと言った。
それを聞いてそこまでして美貴に抗う覚悟を眩しく思った。思うと同時にはっと周囲の木々を見渡した。
なんと呑気な感想か。そんな者たちは他でもなく、文字通り死ぬ気でこちらを殺しに来ているのである。希望を抱いた嚆矢の祭りは終わり、殺し合いの闇が前途に構えている。
村の近くには青く澄んでいる大きな池がある。そこにある青空よりも清らかな水は、しかし元いた化者の墓として利用され、何百年もの間村から出た遺体を納めていたという。そのため、軍はそこから水を汲むことを禁じ、またその池に近づく者はいなかった。
エミの隊は村であった拠点にて荷駄を別の隊に引き渡し、また別根院に戻る。そしてまた荷駄を拠点まで運んだ。
拠点で交わされる兵の噂は嫌でも耳に入る。敵は要所に岩を落とし道を塞ぎ、草木に息をひそめ備えの薄き箇所を見逃すことなく襲撃し、軍は出血を続け、上層部の不和の亀裂が徐々に深まっているという。
美貴も犠牲になっているのだ。山の化者は千年に渡り朝廷と戦争を続け生き残っている強者の子孫であり、至美貴という絶対の存在には手が出ずとも、それ以外の美貴に対しては十分に刃が届きうる。
戦闘も行っていないにもかからず、エミの隊は日に日に憔悴していっているようであった。
敵のいない影を敵と思い、微風にすら怯えるようである。時たま見かける化者の奇襲を受けたのであろう戦闘痕や、そこに転がる屍骸は、己らが迷い込んだ地獄の本来の姿。無事である方こそが間違っているのだという脅迫が頭蓋にこびりつく。
拠点で休息をとっているとき、己は隊から抜け出して、あの池へ向かった。
何故向かったのか。何を思っていたのか。化者という美貴でも醜下でもない存在の墓場。
化者の死はどんな色なのであろう。まだ水の中に個体があるのなら、引き揚げ、切り裂いて中を見てみたい。生と死を分ける一線の水。そこに飛び込めればあるいは何か変わるのかもしない。
その池の色は空気よりも透明で、何よりも澄んでいて、微かな綻びすらもない希望を、あるいは一点の疑問もない絶望を、この身で感じるとることができるのかもしれない。……否、そんな欲求は後付けだ
。
ただただ、その水面に惹かれたのだ。
餓えた者の目に現れた熟した果実のように。己の餓えた何かが、それに飛び込んだのだ。
池の縁を掴んで、水面に顔を出した。
最初は己の顔がそこに映ったと思った。
だが、次の瞬間には白い女の顔があった。鏡をのぞいたように、女は余りに水面の近くから、正面から己を見ていた。病的なまでに白い肌は死人そのものであるように思えたが、碧い瞳は見開かれ、微かに動いているようにも思えた。
毛に覆われた三角の獣の耳朶は女を人間ではないことを証明していた。
恐怖というよりも驚愕で仰け反った。
鼓動は速くなり、女の顔を思い出すほどにより強くなった。再び見る勇気なぞなかった。女の顔は己とは全く違う美しい造形をしていたが、自身を見たような感覚が付きまとっていた。
目の前には澄み切った池がある。清廉に過ぎる群青は、ある種の狂気を、この世とはかけ離れた存在のように感じる。
己の中の飢えていた何かはもう満足しているようであった。
抜けた腰を無理矢理に起こしてその場から逃げた。何かに後ろから足を取られた感覚を覚え、転んだ。振り返った。視線の先にある池の上では、日中の空に白い月が浮かんでいた。
院と拠点の往復は数度に及んだ。具体的な数なぞ気にしていない。
運ぶ糧食がどれほど役に立っているのかも分からない。己の任は、襲撃を恐れながら山と院を行き来することにあるようだ。糧食よりも、この恐怖心こそが、戦争へ貢献しているのではないかとさえ思われる。
気を抜くと、池で見た女の顔を己のことのように思い出してしまう。
空は夕焼けの火傷をした後、壊死するように夜の黒が徐々に覆っていった。兵らから昇る噂は時が経つにつれ不穏なものになっていっている。
在真シウミと撤退派の副官たちが対立し、一部の隊は勝手に戦場から離れたという。
姉の顔は血の気が引いていた。噂の裏付けか、ここのところ頻繁に山を下りてくる隊とすれ違ってきた。それも明らかに一目で美貴と見受けられる者が多い。上層部の対立によって前線は動かず、その間も化者奇襲は絶え間ない。
疲労と緊張で、兵らの行進は緩む。
生への執着と死への諦観。ここ一番で醜き者どもは希望や誇りなぞ端からなく、自棄になりて敢えて死への逃走をする可能性を秘めている。小荷駄隊で言えば荷を持って逃げ出すようなことである。
仮に成功したとしても、所詮手で運べる糧食など一月と持たずに食い尽くしてしまうというのに。
エミは荷に目を光らせ、時より道を逸れそうな部下を叱咤した。
虚ろに冥界を彷徨うような目をした醜下は、ただ日ごろ痛みにて覚えさせられた反射でもって姿勢を正す。
拠点まであと一里ほどまでに近づいた時であった。獣の咆哮が衝撃となりて左の耳を撃った。雷が落ちたようであった。躰は岩となり立ちすくんだ。
顔を動かせず僅かにずらせた左目で見た光景は、その瞬間に巨大な白の狼が牙を剥きだしにして突進する姿であった。
次に受けた衝撃は、文字通り躰を吹き飛ばすほどのものであった。
宙に舞う視線の先で、雪崩のように続々と狼が隊に突進する姿があった。
それらはそこいらの生きた兵の肉を食い散らかし、勝ち誇るように闇に沈みゆく日輪に吠えた。
己が意識を保っていたのは、落下した先が偶々柔らかな土であったからであろう。
後頭部に強烈な熱さを伴う痛みを感じながら、襲来した狼どもを見ると、いづれもその背に人間が乗っていることに気が付いた。
否、人間ではない。白毛に覆われた耳朶と尾は、跨っている狼や頭上の月よりもなお白い。その化者たちが手に持つのは腕の長さほどの槍である。
その中の一人と目が合った時、月光がこちらを覗いたような感覚に捕らわれた。
その顔は、池でみた女そのものであった。跨る狼よりも化者の証である耳朶や尾よりも、白々しい。
死人のそれである。ただ青の瞳だけが燦と輝く。
女もまた己を見開いた眼でみていた。だがすぐに目を細めると、脚を使って跨る獣を促し、山の下へと疾駆していった。
それに続いて狼どもは去ってゆく。まるで少し寄り道をして肩慣らしをしただけというように。
後に残されたのは食べ残しの呻き声である。息をすると胸が痛む。
剣を杖としてようやく立ち上がると、そばに落ちていた、それに気づいた。
それは、美しい黒髪に美しい肌であった。
口から横に流れる血の赤も艶やかに着飾っている。先の青白い女とは対極的な生の美がそこにある。
だが、胸に大きな穴を開け、絶命していた。
一体、どれほどの時間を掛けて、それを、姉であると認識しただろうか。
化者の槍で刺殺されたことは明らかであった。生き残った醜下どもは姉の成りの果てを見て一目散に逃げてゆく。
開いた目は虚空を見ていた。悲鳴を上げることができなかった。号泣することもできなかった。
躰中が逃避を渇望していたが、それは心の逃げ先であり、身体の何をどう動かそうと、どこに走ろうと、この絶望の思考はついてくることがわかっていた。
だから無力な肉体はただただ動きを止めるばかりであった。
ああ、己は死ぬことばかりを考えていたが、その死には、美しい姉が嘆く妄想を伴っていた。そう、己はまさにいまの感じているこのどうしようもない絶望を姉に強要し、それを愉しもうとしていたのである。
やがて圧し潰してきたのは、後悔や、罪悪感であり、それは怒りへの昇華されていった。この世界は間違っている。己が先に死ぬはずであったのだ。姉が死ななければならない理由などなかった。
美しい死体を抱えた。
一度抱えると、この重さがなくなれば許容ができない現実の濁流が迫りくる気がして、もう離すことはできなかった。そのまま立ち上がっても、大した重さは感じなかった。
もっと己を罰してほしいと思った。どこにいこうか迷った。全ての道が誤っているということは分かったが、山を下りてゆく勇気はなかった。戦場という非日常の世界の中で、永遠に彷徨い続けたかった。
姉の重さだけを糧として、草木の中に足を踏み入れた。




