第九章 忍び寄る疑念と、淑女の演技
連日連夜、地下闘技場を揺るがす「覆面コンビ」の快進撃。無敗を誇る真紅の悪魔ローズ・ド・モンフォールと、一瞬の接触で関節を解体する慈悲なき聖女シスター・グレイスのタッグは、王家が送り込む高位貴族の刺客たちを次々と惨劇の渦へと突き落としていた。だが、事態が大きくなればなるほど、必然的に避けられない問題が生じる。 社交界の裏側で、不穏な噂がささやかれ始めたのだ。「……なぁ、聞いたか?あの恐ろしい覆面女ローズの体型、どこかヴァレンタイン公爵家のエリス嬢に似ていないか?」「バカ言え、エリス様はあんなに華奢で儚げな方だぞ!だが……そう言われてみれば、背格好や髪の流れる仕草が似ているような……」「それに、あの狂暴な覆面シスターもだ。城下町の教会にいるシスター・セシリアと身長がぴったり一致するらしい……」火のない所に煙は立たぬ。 とりわけ、覆面レスラーたちに面目を潰され続けているレオンハルト王子にとって、その噂は喉から手が出るほど欲しい嫌疑であった。
ある日の午後。陽光が降り注ぐ王宮の広大な庭園サロン。エリス・ヴァレンタインは、水色の繊細なドレスを纏い、静かにティーカップを傾けていた。その隣には、社交界での地位を完全に見失い、新しい派手な金髪の愛人ジュリアを侍らせたレオンハルト王子の姿があった。「エリス。お前に聞きたいことがある」レオンハルト王子が、冷酷な眼差しでエリスを睨みつける。周りには噂を聞きつけた多くの貴族たちが集まり、固唾をのんで遠巻きにその光景を見守っていた。「なんですの? 殿下」エリスは水色の瞳を軽く見開き、無垢そのものの表情で首をかしげた。「知っての通り、いま地下闘技場ではローズなどと名乗る無礼な覆面女が横行している。そして社交界では……あの覆面女の正体が、お前なのではないかという噂が流れているのだ」「まあ……っ!」エリスは小さな悲鳴を上げ、華奢な手で薄桃色の唇を覆った。「私が……あの恐ろしい格闘家の方だなんて……」「白切るな!体型も髪の質感も酷似している!姿を隠し、私に復讐するために夜な夜なリングに立っているのではないか!?」王子が立ち上がり、強い口調で詰め寄る。新愛人のジュリアも、扇子で口元を隠しながら勝ち誇ったように嘲笑した。「そうですわ、エリス様!殿下を困らせるためにそんな怪しい真似をしているのなら、お見苦しいですわよ?さあ、本当のことをおっしゃいなさい!」サロン全体に緊張が走る。エリスは怯えたように肩を細かく震わせ、いまにも落ちそうな大きな涙粒を瞳に浮かべた。その姿は、あまりにも儚く、悲劇のヒロインそのものであった。「そんな……そんな恐ろしい格闘技など、私にできるわけございません……っ。私はただの、腕力もない無力な女ですわ……。お茶を淹れることしかできない私が、どうして男の人たちを叩きのめすことなどできましょうか……」可憐で守ってあげたくなるような涙。完璧な淑女の演技。観客の貴族たちの間から「いくらなんでもエリス様を疑うのは可哀想だ」「あんなにお優しい令嬢が覆面悪魔なわけがない」という同情の声が漏れ始める。しかし、不吉な疑念を拭いきれない王子は、冷たく言い放った。「言葉だけならいくらでも捏造できる!証拠を見せろ!例えば……その細い腕で、私や騎士たちの攻撃を受け止められるわけがないことを――」「黙れぇぇぇぇぇぇぇ失礼千万な愚か者どもがぁぁぁッ!!!!」サロンの静寂を破り、雷鳴のような大喝声が轟いた。突如として植え込みを突き破って現れたのは、あまりにも巨大な影!かつては「落ちぼれ巨漢貴族」と蔑まれながらも、いまやエリスへの狂信的な敬愛によって筋肉を覚醒させた男。ロイヤル卿であった。「な、なんだ貴様はッ!?」王子が驚愕して後退る。ロイヤル卿は怒りに肩を怒らせ、その場でのめり込むように豪快なスクワットを十回ほど高速でこなしてから、王子の眼前に立ちふさがった。「レオンハルト殿下!貴様は正気かッ!?我が天使、社交界の至宝たるエリス様に向かって、なんという無礼な暴言を吐くのだッ!!」「ロ、ロイヤル……!?貴様、なぜここに――」「見ろ!このエリス様の繊細で美しいお手を!細く可憐な腕元をッ!!」ロイヤル卿は身振り手振りを激しく交え、熱血漢そのものの顔で大熱弁を振るい始めた。「エリス様は一輪の花だ! 風が吹けば折れてしまいそうなほど儚い存在なのだぞ!?あの地下闘技場で男たちの骨を砕き、関節を脱臼させて泡を吹かせるような凶暴な覆面悪魔と、このお優しいエリス様が同一人物に見えるのかッ!?貴様の目は腐っているのかぁぁぁッ!!」「な……なにいッ!?」「いいか!?もしエリス様があのローズだというのなら、俺のこの鍛え上げられた大胸筋にかけて誓おう!エリス様が本気で拳を握ったら、俺の心臓は一撃で粉砕される!だがエリス様の手は温かく柔らかい!そんな真似ができるはずがないだろうがぁぁぁッ!!」ロイヤル卿の暑苦しすぎる熱弁と、謎の説得力。さらに彼はその場で「フンッ! ハッ!」と凄まじい風圧の正拳突きを繰り出し、王子の親衛隊を威圧してみせた。「ええい、鬱陶しい! どけロイヤル!」「退かぬ!我が命に変えても、エリス様の清廉潔白を証明してみせる!さあ殿下、俺とプロレスで勝負しろ!俺を倒してからエリス様を疑えッ!」「くっ……狂人め……!」突然乱入してきた筋トレ狂いの巨漢貴族に迫られ、王子は完全にペースを乱された。サロンの貴族たちも、ロイヤル卿の(勘違いに満ちた)必死な主張を聞き、完全にエリス擁護へと傾いていた。「そうだぞ、ロイヤル卿の言う通りだ」「エリス様がそんな恐ろしい覆面レスラーなわけがない」「殿下はご自分の不甲斐なさをエリス様に八つ当たりされているのでは……」周囲からの冷ややかな視線とバッシングを感じ取り、王子は苦虫を噛み潰したような顔になった。(くそっ……!確かに、あんな弱々しく泣くばかりの女に、あのローズのような圧倒的な破壊力と技のキレがあるはずがない……。ロイヤルなどの愚か者に庇わせるほど、私は滑稽な真似をしていたというのか……!)王子は大きく溜息をつき、侮蔑を込めてエリスを見下ろした。「……フン、興が削がれたわ。分かった、お前への疑いは撤回してやる。自分のか弱い婚約者を疑うなど、時間の無駄だったようだ」「殿下……ご理解していただけて、感謝いたしますわ……っ」エリスは涙を拭い、深々と頭を下げた。「行くぞジュリア。こんなシ気味悪い場所からおさらばだ」「ええ、殿下!まったく、見苦しい騒ぎでしたわね」王子は新愛人のジュリアの腰を抱き寄せ、吐き捨てるように去っていった。
王子たちが立ち去り、野次馬の貴族たちも散っていった庭園の隅。「ハァ……ハァ……! エリス様!お怪我はございませんでしたか!アラシのような疑念から、このロイヤルが死力を持ってお守りいたしましたぞ!」額に汗を浮かべ、頼もしく胸を張るロイヤル卿。エリスは静かに立ち上がり、ドレスの皺を優しく伸ばした。「……助かりましたわ、ロイヤル卿。お礼を申し上げます」「ハハッ!お礼など滅相もない!俺はただ、可憐で弱々しいエリス様をお守りしたかっただけに過ぎません!あの覆面女のような恐ろしい存在から、エリス様を……」熱く語り続けるロイヤル卿。その横で、エリスはそっと手持ちのハンカチで涙を拭い去った。水色の瞳から「儚い令嬢の涙」が消え去り、そこには冷徹で妖艶な、真紅の残光を宿したプロレスラーの瞳が戻っていた。
(ふふ……か弱い婚約者、ですか。実に結構な錯覚ですわね、レオンハルト殿下)
エリスは優雅に小首をかしげ、誰にも見えない角度でニヤリと美しく口元を歪めた。(自分の目がどれほど節穴か……そろそろ気づかせて差し上げなければなりませんわね。……それにしてもロイヤル卿、相変わらずお熱いことですけれど、少し暑苦しすぎますわ)完璧な「淑女の仮面」を守り抜いたエリス。 正体追求を諦め、油断し切った王子を待つのは、逃げ場のない、最大のリングであった。




