第六章 愛人クラリスの受難!地獄のキャメルクラッチ
王宮の大サロンは、本日も華やかなドレスを身に纏った貴族たちの談笑に包まれていた。 だが、その優雅な空気の裏には、どこか冷ややかで陰湿な視線が蠢いている。「あら、ごめんなさい?エリス様」耳に障る高笑いとともに、サロンの中央でパリンと乾いた音が響いた。 桃色の艶やかな髪を揺らし、紫の瞳を意地の悪さで歪めているのは、レオンハルト王子の愛人クラリス・ベルモンド伯爵令嬢である。ピンクと白を基調とした豪奢なフリルドレスを誇らしげに広げ、足元を見下ろしていた。彼女の足元には、砕けた磁器の破片と、絨毯にしみ込む温かい紅茶。エリス・ヴァレンタインが静かに運んでいた極上のティーカップを、クラリスがわざと手を滑らせて叩き落としたのだ。エリスの水色のドレスの裾にも、茶褐色の染みが無惨に広がっている。「手元が狂ってしまいましたの。……まあ、でもよろしいのではありませんこと?どうせ公爵家としての落ち目も時間の問題。そんな安い紅茶の染みくらい、いまのお立場にはお似合いですわ」「まあ、クラリス様……」エリスは静かに傷ついたように目を伏せ、華奢な肩をかすかに震ませた。「おい、エリス!お前がぐずぐずとトロい動きをしているからクラリスの手に当たったのだろ!」豪奢なソファから立ち上がったレオンハルト王子が、エリスを指差して怒声を浴びせる。「失せろ、不愉快だ!我が国の王族に相応しいのは、クラリスのように華やかで洗練された存在のみ!お前のような弱く惨めな女は、どこかの隅で怯えていればいいのだ!」サロン中の貴族たちが、クスクスと蔑みの笑いを漏らす。エリスは静かにドレスの裾を摘み、深々と頭を下げた。「……申し訳ございません、殿下、クラリス様」立ち去るエリスの背中に向けて、クラリスは扇子で口元を覆いながら追い打ちをかけた。「ふふふ! 惨めですわねエリス様!強い者が支配し、弱い者は踏みにじられる……それがこの王国のルールですのよ?次からは私の前に立つことすら遠慮なさることね!」木製扉を押し開け、廊下へと出たエリス。重厚な扉が完全に閉まった瞬間、彼女の俯いていた顔がゆっくりと持ち上がった。水色の瞳から儚さは消え去り、そこには凍てつくような冷徹さと、フッと口元を吊り上げる妖艶な笑みが浮かんでいた。(強い者が支配し、弱い者は踏みにじられる……ふふ、素敵なルールですわね、クラリス様。今夜のリングで、そのお言葉の重みをたっぷりと教えて差し上げますわ)
その日の夜。 熱気と怒号、そして怪しい熱狂が渦巻く地下闘技場のメインリング。「さあァァァーーーッ!!今夜も宴の時間がやってまいりましたァァァッ!!!」実況アナウンサーの絶叫がドーム状の天井を揺らす。「連戦連勝!王国の力学を覆し続ける漆黒と真紅の破壊姫!ローズ・ド・モンフォール――ッ!!」赤コーナーから、編み上げのコルセットと赤黒のフリルユニフォーム、真紅の瞳を怪しく輝かせる漆黒と金の仮面を装着したローズが静々とした足取りで姿を現した。観客席からは狂乱のような歓声が巻き起こる。「そして対する青コーナー!!なんと今夜は特別ルール!王子殿下の愛弟子にして、社交界の華! 桃色の妖精ベルモンド令嬢の緊急参戦だァァァッ!!」「な……なんなのよこの汚い場所は!?離しなさいッ!」青コーナーのリング上に無理やり押し出されたのは、ピンクと白の鮮やかなレスリングコスチュームに身を包んだクラリス・ベルモンドだった。彼女は王子から「我が国の威信を取り戻すため、お前の華麗なレスリングで覆面女を公開処刑してこい」とそそのかされ、半ば強引にリングへと上げられたのだった。桃色の髪を振り乱し、紫の瞳を釣らせて怒りを露わにするクラリス。だが、彼女はただの飾り物の令嬢ではない。王子直伝の格闘技術を修めており、そのスピードと魅せ技は地下格闘界でも桃色の妖精として一目置かれる実力を誇っていた。「フン……気味の悪い覆面女ね!私の華麗な技の前にひざまずきなさい!」クラリスは不敵に笑うと、リングマットを軽やかに蹴った。スピードに乗ったその動きは、まさに妖精の如く華やかであった。「カァァァン…………!!!!」試合開始のゴングと同時に、クラリスが素早く間合いを詰める!「沈みなさいッ!我が必殺の――プリンセス・キッス!!」空中での華麗な回転から繰り出される、完璧な角度のドロップキック!観客席の貴族たちから「おおっ!」と歓声が上がる。勝った、とクラリスが確信した瞬間。スッ……。ローズはまるで舞い散る花びらを避けるかのように、わずか数センチ頭部を傾けただけで、その必殺のキックを完全に紙一重でかわしてみせた。「なッ……!? 空を切った……!?」勢い余ってマットに突っ込んだクラリスの背後に、ぬらりと黒い影が落ちる。「あら……ずいぶんと元気な脚ですわね」ゾッとするほど静かで美しい声。 次の瞬間、クラリスの視界が激しく回転した。ローズの手がスッと伸びたかと思うと、うつ伏せに倒れたクラリスの背中に、ズドンと重い膝が乗せられたのだ。「ひぐあッ!?」ローズはクラリスの両太腿を自らの両膝でガッチリと挟み込み、相手の顎の下へ自らの両腕を深く回し入れた。そのまま、テコの原理を利用してクラリスの頭部と上半身を背中側へと強烈に引き上げる!背骨が逆方向へと弓なりにしなるプロレス史上、最も屈辱的で凶悪な拷問技。キャメルクラッチ(ラクダ固め)――ッ!!「ギィあぁぁぁぁぁぁぁッ!?!?か、背中がッ!背中が折れるぅぅぅッ!!」闘技場全体に、クラリスの喉をかき毟るような悲鳴が響き渡った。「出たァァァーーーッ!!!」実況アナウンサーがマイクに叫びを散らす。「ローズ選手の容赦なき拷問台!『地獄のキャメルクラッチ』だァァァッ!!桃色の妖精クラリス、手も足も出ずに背骨を逆折りにされているーーーッ!!」「い、痛い!やめて!降参!降参するわッ!!」クラリスは涙と鼻水で自慢の顔をぐしゃぐしゃにし、マットを必死に叩こうとする。だが、腕を固められ、顎を引き上げられているため、タップすることすら許されない。ローズはクラリスの耳元にそっと顔を寄せると、仮面の奥の真紅の瞳を妖しく輝かせ、冷酷なまでに甘い声で囁いた。「あら……昼間サロンでおっしゃっていたこと、もう一度言ってごらんなさい?」「ひ、ひぃぃぃッ!?な、何を……ッ!?」「強い者が支配し、弱い者は踏みにじられる……素晴らしいお考えでしたわね。では、いま踏みにじられている貴女は、一体何なんですの?」グググ……ッ!!とさらに腕が引き上げられ、クラリスの背骨がメキメキと悲鳴を上げる。「ギャあああああッ!?言いません!二度と言いませんわぁぁぁッ!!」「まあ、言いませんの?では……お勉強を続けましょう」「ひぐあぁぁぁぁぁぁッ!?!?!?」さらに容赦なく角度が深まる。観客席の貴族たちは、あまりの凄惨さとローズの完封ぶりに、静まり返って言葉を失っていた。「た、助けて殿下ぁぁぁッ!折れる!姿勢が!骨がぁぁぁッ!!」「さあ、もっと声をお上げなさい。貴女が大好きな強者のルールを、全身で噛み締めながら」逃げ場のない地獄の拷問が、数分間にわたってリング上で繰り広げられた。クラリスの目が完全に白目を剥き、失神しかけたその瞬間。カンカンカンカンカン!!!「勝者ァァァッ!!覆面令嬢、ローズ・ド・モンフォールーーーッ!!!」ゴングが鳴り響くと同時に、ローズはスッと手を放した。クラリスは糸の切れた人形のようにマットへ崩れ落ち、ピクピクと痙攣しながら泡を吹いている。ローズは優雅にドレスの裾を払うと、静かに一礼した。「ご指導、ありがとうございましたわ」地鳴りのような歓声と恐怖のどよめきが、地下闘技場を支配していた。
翌日。王宮の大サロン。「あ、愛人クラリス様が……あの惨状だそうだ……」「腰骨をやられて、歩くことすらできないらしい……」サロン内には、昨日以上の恐怖と動揺が広がっていた。豪華なサロンの片隅、冷たい壁際に追いやられていたのは、腰にガチガチのコルセットを巻き、車椅子の上で顔面蒼白のまま震えているクラリスの姿だった。自慢の桃色の髪はボサボサで、紫の瞳には強烈なトラウマと絶望が色濃く刻み込まれている。だが、彼女の惨めさは肉体の激痛だけではなかった。「……えぇい、鬱陶しい!寄るな、この役立たずがッ!」サロンの中央で冷酷な罵声を浴びせたのは、かつて彼女を甘やかしていたレオンハルト王子だった。王子のすぐ隣には、早くも新しく囲い込んだ派手な金髪の愛人ジュリア男爵令嬢がぴったりと寄り添い、クラリスを蔑みの目で見下している。「殿下ぁ……っ、お願いですわ、私を捨てないでくださいませ!私はまだ、殿下のお役に……っ!」車椅子の車輪を必死に回し、縋り付こうとするクラリス。しかし、王子は蔑むように鼻を鳴らし、彼女の手を汚いものを見る目ではね退けた。「だまれ!覆面女ひとりに無様に叩きのめされ、無様に車椅子に揺られているような女が、我が王国の第一王子たる私の隣に立てると思うのか!?我が国のルールは強さだ。負けた貴様はもうただの弱者、何の価値もないゴミくずだ!」「そんな……っ、殿下ぁ……ッ!」ポロポロと涙をこぼし、すがりつく相手を失って絶望に打ちひしがれるクラリス。昨日まで「弱い者は踏みにじられるのがルール」と誇らしげに語っていた彼女が、まさにそのルールによって王子に踏みにじられ、捨てる側に回された瞬間だった。そこへ、静かな足取りで水色のドレスを身に纏ったエリスが歩み寄ってきた。その手には、湯気を立てる極上の紅茶が載ったトレーがある。「あら……クラリス様。お加減はいかがですの?」「ヒッ……!?」エリスが優しく微笑みながら紅茶を差し出した瞬間、クラリスは悲鳴を上げて車椅子ごと後退した。エリスの水色の瞳の奥に、昨夜リングの上で自分を冷酷に見下ろしていた真紅の悪魔の残光が重なって見えたからだ。エリスは小首をかしげ、天使のように澄み切った無垢な声で囁いた。「お背中が、大変お痛むようですわね。……手元が狂って紅茶をこぼしてしまっては大変ですから、どうぞご無理なさらないでくださいませ?」「ひぃぃぃぃぃっ……!ごめんなさい!ごめんなさいぃぃっ!私が悪かったわ、許してぇぇっ!」クラリスは頭を抱えて車椅子の上で縮こまり、がたがたと震えながらなりふり構わず謝罪の言葉を撒き散らした。「な、なんだクラリス!?急に狂いおって!どこまで惨めな姿を晒せば気が済むのだッ!」新愛人の腰を抱き寄せながら不快そうに吐き捨てるレオンハルト王子。その困惑と傲慢を冷ややかに見つめながら、エリスは静かに紅茶を一口すすった。その口元が、誰にも見えない角度でニヤリと美しく歪む。
(ふふ、お望み通り強い者が支配するルールに則って捨てていただきましたわね、クラリス様。どうぞ、ご自分で作られた地獄を存分に味わいなさいませ)
王子の足元を支えていた傲慢な力学は、すでに内側からボロボロと崩壊し始めていた。




