第五章 崩落の巨獣と、スクワットに咲く恋
陽光が美しく差し込む王宮の大サロンでは、連日、社交界を揺るがす格闘界の動向が激しい噂話となって飛び交っていた。「ねえ、お聞きになりました?王国の巨獣と恐れられたロイヤル伯爵公が、地下リングで例の覆面令嬢に敗れ、一気にロイヤル卿へと降格されたそうですわ」「まあ、あんなに威張っていらっしゃいましたのに!ふふ、いい気味ですこと」扇子で口元を隠し、クスクスと嘲笑い合う貴族たち。このゴルディア王国において、公式レスリングの敗北による爵位の降格は、社会的権利や財産、さらには発言力の喪失を意味する。サロンの隅で水色のドレスの裾を静かに整えるエリス・ヴァレンタインの瞳に、うっすらと暗い影が落ちた。レオンハルト王子とその愛人クラリス・ベルモンド令嬢は、この凄惨なシステムを悪用し、エリスの公爵家を不当に急降下させようと企んでいた。「王子に相応しくない弱い令嬢」と見下され、日々に及ぶ侮辱。だが、エリスにとって己への侮辱や公爵家の地位など、本当はどうでもよかったのだ。彼女が真に許せなかったのは、王子側が「弱者に税や援助を使う必要はない」と言い放ち、城下町の教会への支援を全額打ち切ったことだった。子供たちの教材が消え、明日の食料すら危うくなる。大切な子供たちの未来が、傲慢な力によって踏みにじられていく。(自分への復讐はどうでもいい。けれど……強さとは、弱い者を踏みつけるためにあるのではありませんわ)その怒りと信念こそが、彼女を真紅の仮面ローズ・ド・モンフォールとしてリングに立たせる真の理由であった。
一方、降格の憂き目に遭ったロイヤル卿の屋敷。かつて王国の巨獣と恐れられた三十八歳の巨漢は、昼間から上質な酒に溺れ、荒れ果てていた。「く、くそっ!あの覆面女めぇぇぇッ!!」ガシャーン!!! 高価なグラスが壁に叩きつけられ、酒が血のように滴り落ちる。濃い茶髪を振り乱し、赤褐色の瞳を血走らせたロイヤル卿は、執事やメイドにあたり散らしていた。毎夜訪れるのは、ローズにリアネイキッドチョークで絞め落とされた瞬間の悪夢。 強大な腕力を誇っていた男は、再戦の勇気すら失い、廃人のように恐怖に怯えていた。「おい、馬車を出せ!外の空気を吸う!」苛立ちを紛らわせるため城下町へと出たものの、通りを行き交う市民たちの視線すら、自分を嗤っているかのように錯覚してしまう。「おいコラァッ!何をニヤニヤ見てやがるッ!!」感情を爆発させたロイヤル卿は馬車を飛び出し、路上でりんごを売っていた小さな子供の籠をドカリと蹴飛ばした。「ぎゃあッ!」と声を上げて転がる子供。「けッ、無能な弱者が俺の視界に入るんじゃねえ!」己の小ささに苛立ち、さらに足を振り上げたその時だった。「そこまでです、ロイヤル卿」静かだが凛とした声が響き、水色のドレスを纏った少女がサッと割り込んだ。彼女は転んだ子供を庇うように背中に抱え、真っ直ぐにロイヤル卿を見上げている。エリス・ヴァレンタインであった。「な……なんだお前は……」赤黒い豪華な衣装を包む巨大な巨躯の目の前で、あまりにも儚く、しかし澄み切った水色の瞳を持つ可憐な少女。その瞬間、ロイヤル卿の脳内に、雷鳴が轟いた。夕陽を浴びて輝く美しいウェーブ髪。恐怖に怯えるどころか、まっすぐ自分を見つめる無垢な瞳。ドクン……と、彼の太い胸板の奥で、経験したことのない激動が走る。(な、なんだこの可憐な天使は……!?俺の拳を前にして、退きもしない……!)一目惚れであった。屋敷に取って返したロイヤル卿は、即座に執事を怒鳴りつけた。「今すぐあの水色のドレスの令嬢について調べろ!!」結果はすぐに判明した。彼女はレオンハルト王子の婚約者でありながら、王子と愛人クラリスによって酷い虐待と抑圧を受けている不遇の令嬢だという。「……あの王子め、こんな美しい天使を虐げておるのかッ!?」ロイヤル卿の胸の中に、かつてない正義の怒りと愛の炎が燃え上がった。彼は拳を硬く握りしめ、咆哮した。「すぐに国内の有名トレーナーを集めろ!!俺は王子と闘い、エリスと結婚するぞ!!!」これまで己の生まれ持った腕力だけに胡坐をかき、泥臭い練習など一切してこなかったロイヤル卿。彼が何よりも嫌っていた下半身のトレーニングの日々が、ここに開幕した。毎朝五時に起き、千回のスクワット。汗と泥に塗れての坂道ダッシュ。酒を絶ち、高タンパクな食事へと変える。すべてはローズへの再戦、そして王子への挑戦権を得て、エリスを救い出すためだ。そしてトレーニングの合間、彼はたびたび城下町の教会へ足を運ぶようになった。「エリス!!」「……あ、あら、ロイヤル卿?」教会の庭で子供たちといたエリスの前に、大量の汗をかいた巨漢がドタドタと現れた。彼はエリスの前でドォン!と地響きを立てて膝を突くと、どこからか取り出した豪華な花束を差し出した。「エリス!悪いが素性は調べさせてもらった……!」(ま、まさか……私の正体がローズだとバレたの!?)身構えるエリスに対し、ロイヤル卿は赤褐色の瞳を爛々と輝かせて叫んだ。
「好きだ!!ローズと王子は必ず私が倒す!!!そして、その時は私と結婚をしてくれ!!!」
「………………っ」
エリスの背筋を、強烈なまでの悪寒が駆け抜けた。正体発覚の恐怖ではなく、ただただ純粋なドン引きと困惑による鳥肌であった。しかし、ロイヤル卿の猛アタックは止まらない。 最初は完全に「エリスと結婚するため」という下心100%で通い始めた教会だったが、次第に変化が訪れる。子供たちにお菓子を配るロイヤル卿。最初は巨体に怯えていた子供たちだったが、泥だらけで必死な彼に次第に懐き始めていた。「ほらよ、持っていけ」「わーい! ありがとう! ロイヤルおじちゃん!」「……おじ……」ガーンとショックを受けるロイヤル卿だったが、ふと子供たちの笑顔を見て胸が温かくなるのを感じた。(……こいつら、俺を怖がらないのか?巨漢の俺を……)己の強さとは、今まで他人を威圧し、踏みつけるためだけに振るってきたものだった。だが、弱い者を守り、笑わせるための力があることを、彼はこの小さな教会で学び始めていたのだ。数週間後。筋肉が一回り引き締まり、野生味とキレを増したロイヤル卿が、再びエリスの前に立ち塞がった。「エリス!見ていてくれ!!私は変わった!!」「……はあ」「毎朝五時に起きてスクワットを千回!!坂道ダッシュ!!食事も変えた!!酒も減らした!!すべては、君と結婚するためだ!!!」「………………」あまりのブレなさにエリスが絶句していると、影からそっと見守っていた修道服のシスター・セシリア(セシリア=ローズの師)が思わずツッコミを入れた。「そこは『子供たちのため』ではありませんの!?」「もちろん、それもある!!」ガハハと豪快に笑うロイヤル卿。その表情には、かつて酒に溺れていた浅ましい落ちこぼれの影は微塵もなかった。
「ローズ!幼馴染のロングハットがやられたと聞いたぞ!だが以前までの私だと思わぬほうがいい!!エリスへの愛の力を見せてやる!!!」
誰もいない空間に向かって吠えるロイヤル卿を見つめながら、エリスはそっと自身の腕を抱きかかえた。(……猛烈に全身の鳥肌が立ちますわ。ですが……ふふ、いい顔になられましたこと)真紅の仮面を潜ませた水色の瞳が、少しだけ温かい光を宿す。愛ゆえに勘違いし、愛ゆえに正しき強さに覚醒した王国の巨獣。 彼の参入により、ゴルディア王国の歪んだ力学は、さらに激しく狂い始めていくのだった。




