第四章 礼儀指導(物理)――極めるローズ
支点が消え、幾何学の計算式が崩壊する。ロングハット卿が己の才能と知性を注ぎ込んで構築した「絶対の檻」は、ローズが指一本の関節角度をずらしただけで、呆気なく霧散した。「な……なにが……っ!?」ロングハット卿の思考が完全にフリーズする。彼が体勢を立て直そうと長い腕を引こうとした瞬間には、もう遅かった。ローズのしなやかな手足が、まるでまとわりつく絹の帯のように、ロングハット卿の右腕へと巻き付いていた。「まずは基礎からお復習いいたしましょう」トん、と軽やかなステップとともに、ローズの体が宙を舞う。 気付いた時には、ロングハット卿の右腕はローズの股間にしっかりと挟み込まれ、両手で手首を固定されていた。腕十字固め(アームバー)――ッ!!「ぐあああっ!?」肘関節が逆方向へと強烈にしなり、痛みが脳天を突き抜ける。ロングハット卿は冷や汗を吹き出させながら、反射的に体をクルリと反転させた。うつ伏せになり、腕を抜いて逃れようとする。長年の格闘経験がもたらした、完璧なセオリー通りの脱出行動だった。しかし、それこそが、ローズの描いた筋書きだった。
「あら、良い反応ですわ」
ローズは逃げるロングハット卿の腕をあっさりと解放すると同時に、流れるような動作で相手の左足首を両腕で抱え込んだ。脱出の勢いそのままに前傾姿勢となったロングハット卿の足首に、ローズのアキレス腱固めが深く、鋭く突き刺さる!「ぎゃあああっ!!あ、アキレス腱がッ!?」「逃がしませんわよ?」ロングハット卿は苦悶に顔を歪めながら、残った右足でローズの体を突き飛ばし、強引に距離を取ろうと足を大きく伸ばした。だが、ローズはその伸びきった右足を待っていたと言わんばかりに引き寄せると、自身の足と交差させ、相手の膝関節を逆方向へと固定する。膝十字固め(クロスヒール)――ッ!!「ひぐあぁぁぁッ!?ひ、膝が曲がっちゃいけない方向にッ!?」「まだ足が残っていらっしゃいますわね?」悲鳴を上げる間もなく、ローズは両足を複雑に交差させ、そのままロングハット卿の巨体をひっくり返した。両脚をガッチリと四の字の形にロックする。足四の字固め(フィギュアフォー・レッグロック)――ッ!!「な……なんだこれはぁぁぁッ!?」ロングハット卿の悲鳴が闘技場全体に轟いた。腕十字から逃げればアキレス腱を取られ、足を引き抜こうとすれば膝を極められ、抗おうとすれば足四の字へと叩き落される。技と技の間に、隙が一切存在しない。どこへ逃げても、どのような脱出を試みても、次の瞬間には別の関節が死に至る角度で極まっている。チェスで例えるなら、盤上のすべてのコマが詰まされている「完璧な王手」の連続。「出たァァァーーーッ!!!」実況アナウンサーが狂乱したようにマイクへ叫びをぶつける。「ローズ選手の十八番!流れるような連続脱臼演舞、無限関節連鎖術だァァァッ!!『紳士の指揮者』ロングハット卿、自身が今何の技を掛けられているのかすら分かっていないーーーッ!!」「ば、バカな……バカなバカなッ!!」自慢の黒髪は汗と脂でグシャグシャに乱れていた。ロングハット卿は必死にマットを叩き、這い回ろうとするが、関節を固められるたびに激痛で全身の筋力が奪われていく。「な、なんだこの女は……!技が……技の連鎖が途切れないッ!解剖学の域を超えているッ!!」絶望に白目を剥きかけるロングハット卿の耳元へ、ローズがそっと美しい顔を寄せた。仮面の奥で真紅の瞳が怪しく艶やかに揺らめき、薄い唇から極上の甘い囁きが漏れる。「ふふ……長い手足も、正しい角度で折りたたんで差し上げれば、こんなにもコンパクトになりますのよ?」「ひっ……!?」「さあ……最後のお勉強の時間ですわ」ローズは足四の字を解くと同時に、ロングハット卿の背後へ吸い付くように素早く回り込んだ。相手の両腕を背中側へと深く巻き上げ、肩関節を支点にして極限までねじ上げる。チキンウィング・アームロック(羽交い締め関節)――ッ!!「ぎゃあああああああッ!!!!折れる!腕が!肩が!二つに折れるぅぅぅッ!!参った!参りましたぁぁぁッ!!」バシバシバシバシッ!!!ロングハット卿は涙と鼻水を撒き散らしながら、必死にマットを連打した。カンカンカンカンカン!!!「勝者ァァァッ!!謎の覆面令嬢、ローズ・ド・モンフォールーーーッ!!!」静寂。そして直後、地鳴りのような大歓声とどよめきが地下闘技場を包み込んだ。「うおぉぉぉぉっ!!!」「あの紳士の指揮者ロングハット卿が……手も足も出ずに子供扱いされたぞ!?」 「関節の玩具にされてたじゃないか……恐ろしい!!」ローズは倒れてピクピクと痙攣するロングハット卿を冷ややかに見下ろし、優雅にドレスの裾を払って一礼した。「ご指導、ありがとうございましたわ」この夜の敗北の波紋は、単なる地下レスラーの勝敗に留まらなかった。幾何学と関節技の大家として知られたロングハット卿が、完全な技術差で完封されたという事実は、公式レスリング協会を激震させた。翌日、公表されたランキングにおいて、ローズ・ド・モンフォールの順位は「卿」クラスを遥かに飛び越え、一気に「伯爵・侯爵級」へと垂直跳びの如く急上昇を果たしたのである。
翌日。王宮の大サロン。昨日の華やかな空気はどこへやら、サロン内には重苦しい沈黙と恐怖が立ち込めていた。「おい……聞いたか?ロングハット卿の噂……」「ああ、両腕と両足の関節をすべて可動域の限界まで折りたたまれたそうだ……」「あの男が子供扱いされただなんて……あの覆面レスラーは何者なんだ?」「まさか……隠れた公爵級、あるいは王族級の怪物では……!?」貴族たちが青ざめた顔で囁き合う中、サロンの壁際で一人、ガタガタと震えている男がいた。 ロングハット卿である。彼の両腕はガチガチにギプスで固められ、首から吊るされた白い三角巾で無惨に固定されていた。シルクハットを被る気力すらなく、顔面は蒼白、緑の瞳には残虐な解剖学の檻へのトラウマが色濃く刻まれている。「くそっ……なんなのだあの不吉な覆面女はッ!」サロンの中央でイライラと拳を握りしめていたのは、レオンハルト王子だった。隣のクラリスも扇子を握る手が震えている。「ロイヤル伯爵のみならず、ロングハット卿まで惨敗するなど……我が国の秩序を乱す不快な存在だ!」強気な言葉を口にするレオンハルト王子だったが、その手にはうっすらと嫌な冷や汗が滲んでいた。頭脳派すら打ち砕いた覆面女の影が、徐々に自分たちの首元へと迫っているような恐怖を感じていたのだ。「あら、皆様。何をそんなに思いつめたお顔をしていらっしゃいますの?」そこへ、静かな足取りで水色のドレスを纏ったエリスが歩み寄ってきた。彼女の手には、湯気を立てる極上の紅茶が載ったティーカップがある。「エリス!お前は能天気に紅茶など運びおって!」レオンハルト王子が怒声を上げるが、エリスは儚げに微笑むだけで、すっと三角巾姿のロングハット卿の前へと進み出た。「お困りのようですわね、ロングハット卿。まあ……お腕が大変お痛むようですのね?」「ひっ……!?」エリスが紅茶のカップを差し出した瞬間、ロングハット卿はまるで悪魔に刃物を突きつけられたかのように体を跳ねさせ、悲鳴を上げそうになって口を塞いだ。エリスの澄み切った水色の瞳の奥に、昨夜リングで見た「真紅の悪魔」の残光が重なって見えたからだ。エリスは小首をかしげ、天使のような無垢な笑顔で囁いた。「手足が長いと、お綺麗に折りたたむのも一苦労ですわね。……どうぞ、お大事になさいませ?」「ひぃぃぃぃっ……!ご、ごめんなさい!ごめんなさいぃぃっ!」ロングハット卿はティーカップも受け取れず、ガタガタと震えながら逃げるようにサロンを去っていった。「な、なんだあいつは!?急に狂いおって!」困惑するレオンハルト王子とクラリスを背に、エリスは静かに紅茶を一口すすった。その口元が、誰にも見えない角度でニヤリと吊り上がる。
(――さて、次のお相手はどなたかしら?)
社交界に忍び寄る「破壊」の足音は、静かに、だが確実にその大きさを増していた。




