第三章 挑発する技巧派ロングハット卿
力こそが正義であり、筋肉こそが爵位を保証する。そんな無骨な思想が蔓延するこのゴルディア王国において、己の頭脳と技巧を誇る異端の貴族が存在した。ロングハット卿。三十五歳。端正な顔立ちを彩る黒髪と、獲物を観察する蛇のように冷徹な緑の瞳。白と黒を基調としながら、深緑の美しい刺繍が施された細身の燕尾服を身に纏い、頭上にはトレードマークである漆黒の高級シルクハットを戴く男である。長い手足から繰り出される正確無比な関節技の連鎖は、まるで美しく完璧な楽曲を奏でるかのようであり、地下リングでは「紳士の指揮者」の異名で恐れられていた。彼の私室には、世界中の格闘技や人間工学、解剖学に関する書物が所狭しと並べられている。「クックック……哀れだな、ロイヤル」豪奢な革張りチェアに深く腰掛けたロングハット卿は、上質なワイングラスをくゆらせながら、薄い唇に嘲笑を浮かべた。幼馴染であり、昔から脳みそまで筋肉だったロイヤル伯爵公の無惨な敗北を思い返し、緑の瞳を細める。目の前に立つ執事が、恐る恐る口を開いた。「ですがロングハット卿、あのロイヤル伯爵公が格安のファイトマネーで一蹴されたのです。地下格闘界では、あの覆面令嬢ローズ・ド・モンフォールの強さは怪物級だと騒がれておりますが……」「馬鹿め。あのロイヤルが敗れたのは、幼少期から変わらぬ単細胞ゆえ、知性のないリアネイキッドチョークに嵌まったからに過ぎん」ロングハット卿は優雅に立ち上がり、細く長い腕を広げてみせた。「プロレスとは物理学であり、幾何学だ。腕の長さ、支点の位置、テコの原理……それらを完璧に計算し尽くせば、女の細腕など枝のようにへし折ることができる。奴の強さは、無知な筋肉バカども相手に通用する程度の誤魔化しに過ぎんのだよ」彼は卓上の羊皮紙を取り出し、流れるような筆致で文字を走らせた。「執事よ。これを地下闘技場の興行主に届けろ。ファイトマネーには、私のポケットマネーから五万ゴールドを上乗せする。そして……特別ルールの追加だ」「特別ルール、でございますか?」「そうだ。『敗者は相手の命令に絶対服従する』という公開条件を付けろ」ロングハット卿の緑の瞳が、獰猛な欲望にギラリと光った。「あの生意気な覆面女を大衆の前で無様に這いつくばらせ、私の靴を舐めさせてやる。そして私の奴隷として膝を屈させた時、私のランキングと爵位は伯爵、いや侯爵級へと一気に跳ね上がるはずだ。クックック……知性なき美徳など、我がロング・ハット・コンチェルトの引き立て役に過ぎん!」
一方、陽光が燦々と降り注ぐ王宮の大サロン。優雅なチェンバロの音が響く空間の中に、重苦しい緊張感が漂っていた。国内有数のパワーファイターであるロイヤル伯爵公が謎の覆面女に敗北したというニュースは、社交界に激震を走らせていたからだ。「ええい、鬱陶しい!!」サロンの中央で杯を床に投げつけたのは、レオンハルト王子だった。黄金の髪を乱し、機嫌を著しく損ねている。「ロイヤル伯爵のような無骨者が敗れたせいで、民草どもが貴族の威信を疑い始めておる!くだらん地下レスラー一人のために、なぜ我が王国の公式ランキングが動揺せねばならんのだ!」「まあ、殿下。お心を痛めないでくださいませ」すかさず寄り添うのは、桃色の髪を揺らす愛人クラリス・ベルモンド伯爵令嬢だ。彼女は甘い声を出しながら、サロンの隅に佇む水色のドレスの少女エリス・ヴァレンタインへと冷ややかな視線を向けた。「このような時に、何の気の利いたお慰めもできない婚約者様がいらっしゃるから、殿下のご気分が晴れませんのよ」「申し訳ございません、殿下」エリスは儚げに目を伏せ、可憐な水色のウェーブ髪を揺らして深く頭を下げる。その華奢な肩は、二人の威圧に震えているようにも見えた。「フン! 相変わらず木偶の坊のように突っ立っているだけか!」レオンハルト王子は鼻を鳴らし、エリスを指差した。「今度地下リングに上がるロングハット卿は、我が国屈指の技巧派だ。あの男の芸術的な関節技にかかれば、謎の覆面女など一瞬で分解されるに決まっている!エリス、お前も少しは格闘の嗜みというものを学び、我が婚約者として恥ずかしくない知性を持ったらどうだ!」クラリスが扇子で口元を隠し、クスクスと意地の悪い笑い声を漏らす。「ふふふ、無理ですわ殿下。エリス様にそんな高度な理論がご理解できるはずがありませんもの。エリス様、そんなにボケっと立っていらしたら、ロングハット卿の華麗な技の爪の垢でも煎じて飲まれたらどうですの?」煽り立てる二人に対し、エリスはゆっくりと顔を上げた。その水色の瞳は、驚くほど静かで、どこまでも澄み切っていた。「……申し訳ございません、クラリス様。ですが……」「あら、何ですの?」エリスは小首をかしげ、まるで明日の天気を尋ねるかのような無垢な声で囁いた。「手足が長い方ほど、支点と作用点の距離が離れますでしょう?つまり物理学的には、わずかな角度のズレで自らの関節にかかる負荷が跳ね上がってしまいますわ。テコの原理を過信してリーチを伸ばしすぎますと、逆に相手に関節を差し出しているようなものではございませんこと?……手足が長い方ほど、壊せる部位が増えて大変そうですわね」「…………はい?」クラリスは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になり、数秒間フリーズした。「な、何をワケのわからない狂言を言っていますの!?支点?破滅?貴女、ついに頭がおかしくなりましたの!?」「おいクラリス、相手にするな。無能の知ったかぶりだ!」レオンハルト王子は吐き捨てるように言い放ち、エリスを睨みつけた。「くだらん寝言を言ってないで、失せろ!ロングハット卿が勝利し、我が王国の威信が保たれる瞬間を遠くから指をくわえて見ているがいい!」「……畏まりました、殿下」エリスは静かにドレスの裾を摘み、完璧なマナーで一礼してサロンを去った。重厚な木製扉が閉まった廊下で、彼女の唇がスッと吊り上がったのを、誰も見てはいなかった。
その日の夕刻。城下町の小さな教会。「文字を知らないと、不便でしょう?」エリスは穏やかな微笑みを浮かべ、子供たちに羊皮紙の文字を教えていた。「はーい!エリスお姉ちゃん、テ・コ・ノ・ゲ・ン・リってなーに?」「ふふ、それはね……小さな力で、大きな意張りん坊をひっくり返す魔法のことですよ」「へー! すごい!」子供たちが無邪気に歓声を上げる横で、黒い修道服に身を包んだシスター・セシリアが静かに歩み寄ってきた。「エリス様。今夜のロングハット卿、かなり息巻いているようですね。絶対服従の追加ルールまで申請してきたとか」「まあ、絶対服従……」エリスはペンを置き、ふんわりとした溜息をついた。「社交界の紳士というのは、どうしてこうも勝ち誇った時の妄想が激しいのでしょうね。腕が長いということは、それだけアームロックの可動域が広いということに、なぜ気づかないのかしら」「人間、自分の強みと思っている部分ほど、最大の弱点になるものです」シスター・セシリアは銀色の十字架を指先で弄りながら、穏やかに微笑んだ。「相手は解剖学をかじっている気でいるようですから……今夜は、正しい構造の理解というものを、身をもって教えてあげなさい。骨折らせる必要はありません。ただ、関節という関節をすべて正しい方向以外に折りたたんで差し上げれば良いのです」「……シスター、相変わらずお言葉が容赦ありませんわ」「神の教えは、時に厳しく痛みを伴うものですから」二人の師弟は、教会の柔らかな光の中で静かに笑い合った。
そして、夜。 熱気と怒号が渦巻く、地下闘技場メインリング。「さあァァァーーーッ!! 今夜のメインイベントだァァァッ!!!」実況アナウンサーの声が、ドーム状の天井を激しく揺らす。「連勝街道を突き進む謎の覆面レスラー!疾風怒濤の技巧姫、ローズ・ド・モンフォール!!対するは、我が国が誇る頭脳派レスラー!幾何学を奏でる『紳士の指揮者』、ロングハット卿だァァァッ!!」青コーナー。頭上に戴く漆黒のシルクハットに手を当て、白・黒・深緑の華美な燕尾服を纏ったロングハット卿がリングインする。緑の瞳に不敵な笑みを浮かべ、集まった数万人の観客に向かって深々と一礼してみせた。そのキザなパフォーマンスに、貴族席から大きな拍手が湧き起こる。「ロングハット卿!あの生意気な覆面女を分からせてやれ!」「貴族の真の技巧を見せてやれ!」対する赤コーナー。編み上げのコルセットと赤黒のフリルユニフォーム、真紅の瞳に漆黒と金の仮面を装着したローズ・ド・モンフォールが、静々とした足取りでリング中央へ進み出た。 ローズはドレスの裾を払うように優雅に一礼する。
「カァァァン…………!!!!」
試合開始のゴングが、夜の闘技場に重々しく鳴り響いた。「フッ……淑女のお手々を折るのは心が痛みますが……これも貴族の嗜みですのでね」ロングハット卿はシルクハットの庇を指先で軽く持ち上げ、ローズを舐めるように見つめた。その長い足が、ゆったりとしたリズムでマットを刻む。「君の動きはすべて読んでいる。幼馴染のロイヤルのような力任せの愚者とは違うのだよ。諦めて、今のうちに私の足元に跪くがいい」ローズは仮面の奥で真紅の瞳を怪しく輝かせ、ふんわりと小首をかしげた。「まあ……お気遣い、ありがとうございますわ。ですがロングハット卿。あまりに手足が長くていらっしゃると……どの関節からお勉強して差し上げるべきか、迷ってしまいますわね」「抜かせッ!!」ロングハット卿の緑の瞳が激怒に釣り上がった。瞬間、彼の細く長い腕が、まるでしなる鞭のようにしなやかに伸びた!「受けよ!! 我が誇る幾何学の連鎖術『ロング・ハット・コンチェルト』!!」速い!ロングハット卿のリーチは、通常のレスラーの倍近い。一瞬で間合いを詰めた彼の長い指先が、ローズの右手首を完璧な角度で捕らえた。チクタク……と時計の針が刻むような正確さで、手首が支点に向かって捻り上げられる!「まずはリストロック(手首固め)!!」「あら……?」「甘いぞ、声を上げる暇など与えん!」ロングハット卿はローズの手首を極めたまま、燕尾服の裾をなびかせ、流れるような動作で自らの長い肘をローズの肘関節へと押し当てた。テコの原理が完璧に働き、ローズの右腕が不自然な形で固定される!「続いてアームロック(肘固め)!!」「きゃあ……ッ」「逃がさん!さらに首だ!!」ロングハット卿は長い足を旋回させ、ローズの首元へ長い太腿を滑り込ませた。手首、肘、そして頸椎。三つの関節が、完璧な支点とテコの計算によって同時にロックされた!「出たァァァーーーッ!!!」実況アナウンサーがマイクに叫びをぶつける。「『紳士の指揮者』ロングハット卿の真骨頂!まるでオーケストラを奏でるような隙のない連続関節攻撃『ロング・ハット・コンチェルト』だァァァッ!逃げ場がない!手首、腕、首が完全にロックされているーーーッ!!」観客席の貴族たちが狂喜乱舞して立ち上がった。「見たか!これが我が国の頭脳だ!」「あの覆面女、ピクリとも動けんぞ!」「ハハハ!降伏しろ、服従の誓いを立てろ!」リング上。ロングハット卿は勝利を確信し、緑の瞳をギラつかせてローズの耳元で囁いた。「どうだね、覆面令嬢?私の計算された幾何学の檻は?力を込めれば込めるほど、君自身の骨が折れる仕組みになっている。逃げ道などどこにも――」だが。「……ふふ」ロングハット卿の耳に届いたのは、絶望の悲鳴ではなかった。それは、静かな……まるで午後のサロンで極上の紅茶を口にした時のような、優雅で深みのある嘲笑だった。「な……何……!?」ロングハット卿の背筋に、冷や水のような悪寒が走った。完璧に極めているはずのローズの右腕から、一切の抵抗感が消えていた。まるで、骨のない軟体動物か、液体でも掴んでいるかのような異質な感覚。「あら……」仮面の奥で、真紅の瞳が妖しく怪しく揺らめいた。ローズは口元に極上の微笑みを刻んだまま、静かに、そして恐ろしいほど滑らかな声で囁いた。「あら……これが技とおっしゃるのですか?」「なっ――!?」次の瞬間。ローズは締め上げられているはずの手首の関節を、物理的な限界を超えた角度でクルリとスライドさせた。 支点が消える。テコの原理が霧散する。ロングハット卿が完璧だと信じて疑わなかった幾何学の計算式が、たった指一本のスライドによって、根底から崩壊した。「バ……バカな!? 支点が……私の計算が脱落した……!?」「手足が長くていらっしゃるのは結構ですが……」ローズの身体が、水のように滑らかに反転した。ロングハット卿の長い腕の肘の裏に、ローズの華奢な手がスッと添えられる。ほんの少しの力を加えただけで、ロングハット卿の巨体が支点を失い、無様に前傾姿勢へと崩れ落ちた。「支点が増えれば増えるほど、奪える力学も増えますのよ?」ローズの口元が、ゾッとするほど美しく歪んだ。無敵の技巧派ロングハット卿の顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引き去っていった。




