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第二章 一万ゴールドの格安試合と、解剖学の師匠

 「ロイヤル伯爵。挑戦状が届いております」重厚な革張りのソファが鎮座する私室にて、執事が冷や汗を拭いながら深々と頭を下げていた。「ふん。ファイトマネーは?」「そ、それが……一万ゴールドでして」「一万だと!?」ロイヤル伯爵が目を剥き、挑戦状を睨みつけた。身分とは血筋ではなく強さであり、公式レスリングランキングによって貴族階級が決定されるこの国において、ロイヤル伯爵は圧巻のフィジカルで上位に君臨する男である。「どこのどいつだ!そんな端金で、この私に挑戦するなど!」「そ、それが……非常に申し上げにくいのですが……」執事がさらに声を落とす。「正体不明の令嬢様からです」「……何?」ロイヤル伯爵の分厚い眉が動いた。「女……?」「はい。覆面を纏った女レスラーでございます」「女が……この私にプロレスを挑むというのか!?」「はい……」しばし、重苦しい沈黙が室内の空気を支配した。執事は恐る恐る言葉を続ける。「しかし、ロイヤル伯爵。もし令嬢様からの挑戦状をお断りになれば……ロイヤル家の名に傷がつくかと」「……くっ!」ロイヤル伯爵は筋張った拳で挑戦状を力任せに握り潰した。極太の血管が額に浮かび上がる。「……生意気な!!いいだろう、受けてやる!!!」



 「どうした、ロイヤル伯爵!!」実況席のアナウンサーがマイクに叫びをぶつける。「女相手に情けないぞーーーッ!!!」満員の観客席から爆笑と冷やかしの声が巻き起こる。しかし、リング中央に立つロイヤル伯爵は、全く笑っていなかった。「はぁ……はぁ……はぁ……」その額から大粒の汗が滴り落ちる。「ば、バカな……」と呟く大きな拳が小刻みに震えていた。(バカな!!この私が……!)客席からざわめきが広がる。「なんだ……?ロイヤル伯爵の様子がおかしいぞ?」ロイヤル伯爵の顔面から血の気が完全に引いていた。全身を駆け巡る不可解な悪寒、止まらない冷や汗。目の前に立つのは、編み上げコルセットに身を包んだ、どう見ても華奢で細身の覆面令嬢ローズ・ド・モンフォール。(この私が……今まで積み上げてきた地位と名誉が……!!)「おーーーっと!!ロイヤル伯爵、心理的に追い詰められているかーーーッ!?」「ぬぉおおおおおお!!!」叫びとともにロイヤル伯爵が立ち上がった。相手の牽制をダッキングでかわし、地響きを立てて前傾姿勢を取る。高速タックル!!!「出たァァァーーーッ!!!立ち上がりからダッキング、そして高速タックルだーーーッ!!!」「神よ!!頼む!!この刹那のみ、私に微笑みたまえーーーッ!!!」ロイヤル伯爵が咆哮し、弾丸のような伸びでローズの腰を狙う。「出た!!三度目の高速タックル!!!今度こそチャレンジャーを捉えることができるのかーーーッ!!!」しかし、ローズはスッと一歩だけ横へ滑らかに身を交わした。そして、伸びきったロイヤル伯爵の軸足を、足の裏で軽やかに払う。「なっ――!?」体勢を崩し、巨体が前方へと流れる。ローズはその背後へ吸い付くように素早く回り込み、ガッ!!と両腕を相手の首元へ巻き付けた。リアネイキッドチョーク(裸絞め/チョークスリーパー)ッ!!!「な……こ、こんな……細腕……!!」ロイヤル伯爵は必死に両手で首に巻きついたローズの腕を掴んだ。(こんな細腕……すぐに振りほどいて……引き剥がしてやる……!!)全身の筋力を腕に込め、力任せに引っ張る。しかし、ローズの腕はビクとも動かない。完全な力学と頸動脈への圧迫構造に基づいたその締め上げは、人間力学の完璧な檻だった。「く……! は、外せ……外せ……!!外せええええええ!!!」ローズは無言。真紅の瞳で淡々と首を締め続ける。ロイヤル伯爵の視界が急速に狭まり、暗転していく。「……く……この……私が……」ブラックアウト。ロイヤル伯爵の巨体がマットへ崩れ落ちた。「落ちたーーーッ!!!ロイヤル伯爵、完全に落ちたーーーッ!!!」カーン、カーン、カーン!!「勝者ァァァァ!!!謎の覆面令嬢、ローズ・ド・モンフォールーーーッ!!!」ローズは倒れた伯爵を冷ややかな眼差しで見下ろし、小さく息を吐いた。「……一万ゴールド。安すぎましたわね」観客席は静まり返り、やがて異様なざわめきへと変わった。「あの細腕で……」「国内でも指折りのフィジカルを誇る、あのロイヤル伯爵を一瞬で……!?」パリンッ。貴族席の誰かの手からワイングラスが床に落ち、砕け散った。「嘘……だろ……」「ま、まぐれに決まっている!!」別の貴族が立ち上がり、声を荒らげた。「そうだ!! 試合前に毒でも盛ったんだ!!きっと卑怯な手を使ったに違いない!!」場内が不穏に揺れ動く中、ローズはゆっくりと振り返り、静かに微笑んだ。



「あら。とても紳士の言動とは思えませんわね」



 彼女は優雅な歩調でリングの中央へ歩み出る。「もしご都合がよろしければ、このまま、もう一人お相手してもよろしくてよ?」シン……と場内が静まり返る。誰もが口をつぐんだその時「わっはははは!!」豪快な笑い声が響き渡り、一人の男が立ち上がった。長いシルクハットに白い燕尾服を纏った細身の貴族である。「面白い!!次は俺が相手になってやる!!」実況が狂喜する。「あーーーっと!!多彩な技を誇る技巧派、ロングハット卿だーーーッ!!!」ロングハット卿はシルクハットの庇を軽く持ち上げ、ニヤリと笑った。「ただし、試合は後日だ!二戦目の言い訳をされてはたまらんからな!」観客席から「ウォォォォ!」と大歓声が沸き起こる。ローズは「まあ。随分と自信がおありなのね」と可憐に首をかしげ、ロングハット卿は「楽しみにしていろ、令嬢!」と言い残して去っていった。



 翌日。王宮サロンの空気は、まるで氷点下のように冷え切っていた。「ロイヤル伯爵が……覆面レスラーに敗れた……?」「しかも、一万ゴールドのファイトマネーで……!?」社交界の貴族たちは顔を見合わせ、血の気を引かせていた。最上位レベルのフィジカルを持つ男が敗北したという事実は、彼らの社会的序列そのものを揺るがす恐怖だったからだ。「エリス!!いつまでそこに突っ立っている!」サロンの真ん中でイライラと怒声を上げたのは、レオンハルト王子だった。その隣には、愛人のクラリスが寄り添っている。「申し訳ございません、殿下」水色のドレスに身を包んだエリスは、儚げに頭を下げる。「お前は本当に気が利かないな!世間が妙な覆面レスラーの噂で持ちきりだというのに、我が婚約者として何の気の利いた話題も提供できないのか!」「あら、殿下。そんなに怒らなくてもよろしいではありませんか」クラリスが扇子を鳴らし、嫌味な笑みを浮かべながらエリスの手元にあったティーカップに手を滑らせた。ガシャン!!「まあ。ごめんなさい?手が滑ってしまいましたわ」床に散らばる紅茶と陶器の破片。エリスは黙って膝をつき、それらを静かに拾い集める。「……申し訳ございません」「フン、本当に使えない女だ。行くぞクラリス」「はい、殿下」二人は高慢な足取りでサロンを去っていく。一人取り残されたエリス。床に伏せていた顔が、ゆっくりと上がった。水色の透き通る瞳に宿るのは、儚さなどではなく、どこまでも妖しく冷徹な光。彼女の口元が、ニヤリと吊り上がった。「……後日、ですわね」



 その日の昼下がり。城下町の静かな教会にて、エリスはエプロン姿で子供たちに寄り添っていた。「では、こちらの文字を読んでみましょうね」「はーい!」子どもたちが元気に声を上げる。そこへ、聖衣を纏った一人のシスターが穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。シスター・セシリア。昼の彼女は、貧しい人々に食事を配り、優しく聖書を読み聞かせる慈愛の象徴のような女性だ。「エリス様、今日も子供たちの指導をありがとうございます」「いいえ、シスター。文字や計算を知らないことは、この社会を生きていくうえでとても不便で不利益なことですもの」エリスが微笑むと、シスター・セシリアは深く頷いた。「ええ、その通りです。知識のない者は、知る者によって容易に搾取されてしまう……。文字を知らないと不便、それは生きるための真理です」子どもたちが教会の庭へ駆け出していくのを見送った後、二人は聖堂の奥へと向かった。誰もいない礼拝堂の静寂の中で、シスター・セシリアの雰囲気がふっと変わる。「……それで、エリス。昨夜のロイヤル伯爵戦、拝見しましたよ」「まあ。ご覧になっていたのですか、シスター」「ええ。貴女のチョークスリーパー、絞めしろの角度は完璧でした。ですが……」シスター・セシリアは自身の細い指先をすっと立てた。「相手に『参った』と言わせることにこだわりすぎていますね。関節の構造を正しく理解していれば、相手のギブアップを待つまでもなく、一瞬で機能を停止させられますのに」「シスター……相変わらず容赦がありませんこと」二人の関係、それは単なるシスターと令嬢ではない。シスター・セシリア(本名:セシリア・グレイ)こそが、エリスに人間解剖学と格闘術の基礎を叩き込んだ実の師匠であり、夜のリングにおける伝説の覆面レスラー覆面シスター・グレイスその人であった。シスター・セシリアは静かに微笑む。「文字を知らないと不便であるように……関節の構造を知らないと不便なのです。人間の身体には二百数拾の骨と関節がある。その可動域と脱臼の仕組みを知っておくことは、自分を守る最大の教養ですよ」「教養……ですか」「ええ。痛みを知ることもまた、神の教え。構造を物理的に無効化すれば、無駄な争いも瞬時に終わります」シスターはそう言うと、エリスの肩にそっと手を置いた。「ローズ。貴女は優しすぎる。『極める』ことに美学を見出すのは結構ですが、時には容赦なく『外す』術も手元に置いておきなさい」「……頭に入れておきますわ、師匠」昼の教会に差し込む柔らかな光の中、二人の師弟は静かに視線を交わした。文字を知らないと不便。その教えのバトンは、夜の暗闇の中で、最も美しく最も苛烈な「関節解剖学」へと姿を変える。



 そして、数日後の夜。ガアアアン!!!重厚な鉄の扉が開き、地響きのような歓声が地下闘技場を揺らした。「さあ来ましたァァァ!今夜のメインイベント!!」「ロイヤル伯爵を一瞬で沈めた謎の覆面令嬢ローズ!対するは、技の宝庫、ロングハット卿だァァァ!!!」リング中央で長いシルクハットを傾け、不敵に笑うロングハット卿。その足元には、数々のレスラーを沈めてきた関節技の残骸が転がっている。「後悔させてやるぞ、覆面令嬢!俺の長い手足から繰り出される関節攻めに、貴様に逃げ場などない!」向かい立つローズは、優雅にドレス風ユニフォームの裾を払うと、仮面の奥の真紅の瞳を妖しく細めた。(極める……そして、外す――)昼間、シスターから授かった言葉が頭をよぎる。ローズは口元に極上の微笑を浮かべ、しなやかな指先をすっと相手へ向けた。



「ご指導、喜んでお受けいたしますわ」



カーン!!!



試合開始のゴングが、夜の暗闇に高く鳴り響いた!


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