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第一章 虐げられる水色の令嬢と、夜の赤い悪魔


ドゴォッ!!



 重厚な衝撃音が轟き、リング上の冷たいマットに我が国の未来を背負う王太子が崩れ落ちていた。レオンハルト・ゴールド王子の両足を抱え上げ、背後から体重をかけて完全にロックしているのは、妖艶な仮面を纏った覆面の美女――ローズ・ド・モンフォール。彼女が繰り出しているのは、プロレス界においても屈指のエグさを誇る極悪関節技、クロスヒールホールド(交差式かかと固め)だった。「ぐああああああッ!!ひ、膝が……アキレス腱が裂けるぅぅぅッ!!」絶叫が闘技場のドーム状の天井を激しく震わせる。レオンハルトの額からは脂汗が滝のように噴出し、苦痛に歪み切った表情には、かつて社交界を魅了した誇り高き王太子の面影など微塵も残されていなかった。「まあ……」ローズは、まるで午後のティータイムで紅茶のカップを傾けるかのように優雅に微笑んだまま、しなやかな両腕にぐっと力を込めた。ギリ……ギリギリ……ッ!!「た、頼む!!頼むから外してくれぇッ!!」レオンハルトは血走った目を剥き出し、涙と鼻水を撒き散らしながら血の滲むマットを這いつくばった。「なんでもする!!お前に爵位でも金でもやる!!だから俺を許してくれぇぇぇ!!」「…………」ローズは無言のまま、さらに容赦なく足首の捻り角度を深めていく。靭帯が限界悲鳴を上げる音が、リングサイドまで生々しく響き渡った。「ぐおおおおおお!!!ぎゃああああああッ!!!」「出たァァァーーーッ!!ローズ・ド・モンフォール選手の十八番!一切の逃げ道を断つ極悪のクロスヒールホールドだァッ!!レオンハルト王子、早くも絶体絶命ーーーッ!!!」実況席のアナウンサーが唾を飛ばして叫び、超満員に膨れ上がった数万人の貴族・民衆の観客が総立ちで熱狂のるつぼと化す。ローズは、苦悶に悶絶し地獄の叫びを上げる王子の頭上にそっと美しい顔を近づけ、小首をかしげた。仮面の奥で真紅の瞳が怪しく光る。「……どうして、こうなったのでしょうね?」



時を、少しだけ戻しましょう。



 城・昼。陽光が燦々と降り注ぐ、絢爛豪華なる王宮の大サロン。豪華なシャンデリアの下、そこに静かに佇む一人の少女がいた。エリス・ヴァレンタイン。淡く透き通る水色の髪を優雅に結い上げ、同じく可憐な水色を基調とした気品あるドレスに身を包んだ彼女は、静かな、あまりにも儚げで壊れてしまいそうな表情でレオンハルト王子の前に立っていた。「エリス!!」目の前で容赦ない怒声を浴びせてくるのは、彼女の婚約者であるレオンハルト王子だった。黄金の髪と整った顔立ちは身勝手な怒りに歪み、その瞳には露骨な蔑視と嫌悪が宿っている。「この無能で薄のろな婚約者め!!貴様は今日も私のために気の利いた贈り物一つ用意できないのか!?」「……申し訳ございません、殿下」エリスは小さく身を縮め、消え入るような声で頭を下げる。「フン!本来、お前のような存在価値のない女が我が国の王太子である私の婚約者を名乗ることすら、不快極まりないのだ!私には、もっと私の美徳と権威に相応しい女性がいる!」レオンハルトがそう言って手招きすると、その傍らにピタリと寄り添うように一人の令嬢が進み出出た。伯爵令嬢クラリス・ベルモンドである。彼女は絢爛な扇子で口元を隠し、エリスを見下すように意地の悪い笑みを浮かべていた。「まあ、殿下。そんなに怒鳴り散らしてはお体障りますわ。おやめになってくださいませ」「クラリス……フッ、お前は相変わらず優しいな」「殿下は本当に慈悲深く、高潔なお方ですわ」クラリスは流し目で冷ややかな視線をエリスに向け、聞こえよが調子で言葉を続けた。「たとえ、ドブネズミのような価値のない女にも、一応の命だけはありますものね」「ははははは!言い得て妙だな、クラリス!」「ふふふふふ……」嘲笑がサロン内に響き渡る。レオンハルトは胸を張り、エリスに向かって冷たく吐き捨てた。「おい、エリス。いつまでそこにぼんやり突っ立っている?なんの役に立たないドブネズミなら、せめて雑巾でも持って城の廊下でも清掃していたらどうだ?」「……はい、殿下」「あら?」クラリスがふと、エリスの華奢な手に持たれていた一輪挿しのワイングラスに手を伸ばした。そして、ガシャァン!!何のためらいもなく、硬い大理石の床へと叩きつける。甲高い音を立てて砕け散ったガラスの鋭い破片が跳ね返り、エリスの美しい頬を鋭くかすめた。シュー……ッと、一筋の鮮やかな赤い血が、彼女の透きとおるような白い肌を静かに伝い落つ。「あら……手が滑ってしまいましたわ。ごめんなさい?」クラリスは反省の色など微塵も見せず、エリスの頬を伝う鮮血を凝視しながら、ねっとりと口元を歪めた。「まあ……ドブネズミのくせに、血だけはちゃんと赤いんですのねぇ」「はははははは!!傑作だ!おいエリス、クラリスのドレスを血で汚す前にさっさと失せろ!」「ふふふふふ……ごきげんよう、役立たずのエリス様」二人は高慢な嘲笑をサロンに残し、腕を組んで去っていく。重厚な木製の扉が、重い音を立てて閉まった。バタン。サロンに完全な静寂が訪れる。エリスは、ただ一人取り残された。床に散らばったガラスの無数の破片。頬を静かに伝い続ける、一筋の赤い血。彼女はゆっくりと俯いた。その水色の瞳には大粒の涙が溢れんばかりに浮かび、小刻みに震える細い肩は、あまりの屈辱と痛みに必死で耐えているようにしか見えない。そこに存在したのは、誰もが同情せずにはいられない。完璧なまでの可哀想で哀れな不遇令嬢の姿であった。



 その日の夜。王都の華やかな喧騒から離れた、城下町の静けさに包まれた小さな教会。静寂な月明かりがステンドグラスを透かして差し込む聖堂の中で、エリスは貧しい子どもたちの前に柔らかく腰掛けていた。日中の王宮サロンで見せた頬の傷跡は、特殊な化粧と魔法薬によって完璧に覆い隠されている。「ではみんな、この聖書の文字を一緒に読んでみましょうね」子どもたちが元気よく手を挙げる。「はーい!」「えーっと……『神は……汝を……』」「そう。とっても上手ですわ」エリスが優しく微笑むと、別の小さな男の子が少しつ拙い字で書かれた計算ノートを差し出してきた。「シスター・エリス、ここ……教えて……」エリスはノートを受け取ると、目線を低くして柔らかく目を細めた。「あら。ここ、引き算のくり下がりが違っていますわね」「むずかしいよぉ……」「大丈夫ですわ。文字や計算を知らないということは、生きるうえでとても不便で不利なこと……。だから焦らず、もう一度私と一緒にやってみましょうね?」「うん!」「よくできました。本当に利発な子ですね」「わーい!エリスお姉ちゃん、だいすき!」子どもたちの無邪気で温かな笑い声が、静かな教会の中に心地よく響き渡った。エリスの眼差しには、真実の慈愛が満ち溢れていた。



 夜・教会裏の地下保管庫。分厚い石壁に囲まれたこの空間には、静寂だけが満ちている。人影は一切ない。子どもたちを寝かしつけたエリスは一人で静かに地下へ下り、鏡の前でその身なりを素早く、かつ手慣れた動作で変化させていく。気品ある水色のドレスを脱ぎ捨てる。可憐な水色の髪の上に、黄金色の眩い艶やかなウィッグを被り直す。可憐な水色の瞳には、妖しく光る真紅のカラーコンタクトレンズを装着。華奢な体に纏うのは、編み上げのコルセットと美しいフリルがあしらわれた、赤と黒を基調とするアグレッシブなレスリング・ユニフォーム。そして仕上げに、目元と顔の上半分を隠す優美な漆黒と金の仮面を装着した。鏡の中の自分に向かって、スッと顎を引く。そこに佇むのは、もはや昼間の可憐でか弱い、虐げられる令嬢の面影など微塵もない。覆面レスラー、ローズ・ド・モンフォール。彼女は静かに、しかし冷徹な闘志を秘めた真紅の瞳で、闇の向こうにある闘技場を見据えた。



 地下闘技場・メインリング。割れんばかりの大歓声と熱気が、巨大な闘技場の空間全体を激しく揺るがしていた。この国において、貴族の爵位と社会的地位はプロレスリング上の強さによって決定される。強い者こそが高位貴族であり、絶対的な権力を持つ。「さあーーーッ!!今夜もやってまいりました!地下リングから突如彗星のごとく現れた謎の覆面レスラーの登場だーーーッ!!!」観客席から地響きのような大コールが巻き起こる。「ローズーーーッ!!」「今夜も痛快な技を見せてくれーーーッ!!」向かいの赤いコーナーでは、今夜の対戦相手である高位貴族・ガブリエル子爵が巨躯を揺らし、獰猛な笑みを浮かべて構えていた。「フン!女子供の覆面レスラーなど、この俺のパワーで押し潰してやるわ!」ローズは優美な足取りでリング中央へ進み出て、観客と対戦相手に向けて淑女の鏡のような完璧な礼儀正しさで上品に一礼した。「本日はよろしくお願いいたしますわ」カーン!!試合開始のゴングが鳴り響いた。その直後、ドゴォォォォン!!!空気を切り裂くものすごい風圧とともに、ローズの身体がしなやかに躍動した。寸分の狂いもなく旋回し、放たれた高角度のドロップキックが、ガブリエル子爵の醜い顔面に完璧な精度で炸裂する!「いきなり飛んだァァァァ!!鮮やかすぎるドロップキックーーーッ!!!」「ぐおあぁぁぁぁっ!?」巨体を誇る子爵が、鼻血を吹き出しながらマットへ激しく這いつくばった。ローズは空中で着地すると、スカート風のコスチュームの裾を優しく払い、何事もなかったかのように優雅に立ち上がる。「まあ」彼女は仮面の下で、妖しく、そして恐ろしいほど美しく微笑んだ。



「お勉強の時間ですわ!!!」



 「出たァァァーーーッ!!!」実況席のアナウンサーが興奮のあまり狂喜乱舞して叫ぶ。「覆面令嬢ローズ・ド・モンフォール! 今夜も身程知らずな高位貴族相手に、徹底的な礼儀指導だァァァーーーッ!!!」倒れた子爵が必死で立ち上がり、大振りのパンチを繰り出してくる。ローズはその腕をすんなりと見切り、スッと懐へ潜り込んだ。相手の力をそのまま利用し、腕を取って軸を支点に鮮やかに腰をひねる脇固め(フジワラ・アームバー)!「ギャアアアアアッ!? 腕が! 腕が折れるぅぅぅッ!!」「ふふ……技の繋ぎ目が甘いですわよ?」ローズは緩めることなく、さらにそこから相手の首元に足を滑らせ、複合関節技オモプラッタへとスムーズに移行していく。流れるような技の連鎖に、会場からは惜しみない拍手と歓声が沸き起こった。「ギ、ギブアップ!!ギブアップだ!!参ったぁぁぁッ!!」カァン、カァン、カァン!!「勝者ァァァ!!ローズ・ド・モンフォールーーーッ!!!」どよめく観客の嵐のような歓声の中、ローズが静かに、そして優雅に立ち上がる。その顔には、昼間のエリスとしては絶対に人前に見せることのない。どこまでも誇らしく、自信に満ち溢れた満面の笑みが浮かんでいた。



「ふふ……次のお相手は、どなたかしら?」



 昼は、王宮で虐げられる可哀想な水色の令嬢。夜は、高慢な貴族どもをリングの上で徹底的に教育する無敵の覆面レスラー。彼女の名は、覆面令嬢、ローズ・ド・モンフォール。彼女の、社会制度そのものを揺るがす華麗なる復讐劇が、今ここに幕を開けたのだった。




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