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8 幸福の定義

 

(獣のように……)

(獣のように滅んでいけば、美しいかもしれない)

(でもぼくたちは、そうはしない)

(偶然のようにぼくは、きみに救われてしまうから……)



 夜中に智佳(ちか)からメールがあって、六本木の勤めは諦めたという。

「なんだ、踊り観るの楽しみにしてたのに」

 サンジは次の日の昼間、電話で話の続きを聞いた。

「嘘ばっかり、あたしのハダカなんて見たくないんでしょ」

「それはどうかな……思い直したのか」

「ちがうよ、いったん店を閉めて経営者も代わるっていうからさ、なんかやな感じしたんだ」

「なるほど、きな臭いな……昼のウェイトレスはどうした、やってるのか」

「うん、夜の仕事はこうやってさ、いつどうなるかわからないでしょ?

 部屋代くらいはカタギの仕事で確保しようと思ってるんだ」

「堅実になったもんだな、意外と」

「だってオトナだもん」

 大人。そうだったのか。

「うんうん、偉いぞ」

「またどっかに行ったら教えるね」

「そうか? まあ、がんばってくれ」

「お互いにね! じゃあね」

 いつものように言いたいことだけを言って、智佳の電話は切れた。



 連休も終わり、仕事の帰りにもう一度イチさんの店へ寄った。

 勘定をして店を出る時、イチさんが言った。

「先週、こないだの彼女が来てたよ」

 キミコのことだろう。なぜこのタイミングで言うのかわからないが、別にかまわない。

「そうか」

「電話とかで約束して来ればいいじゃない」

「そういうのじゃないからさ」

「教えてないんだ? あんたも中途半端な男だね」

「ここで会う飲み仲間だろ? その時に話せればいいんじゃないの」

「はいはい」


 十一時を少しまわり、酒のつまみを少しとっただけでまだ食事らしい食事はしていなかった。

 駅の向こうにある、元は酒屋のコンビニに寄ろうと思った。

 電車が来て踏切があくのを待っていたら、向こう側にこのあいだの彼女、キミコがいるのが見えた。

 あの時、機嫌をそこねて先に帰った男がそばについている。

 キミコのほうはサンジの姿に気がついていないらしかった。

 かなり酔っているようだ。


「まだ帰らないよー、もう一軒寄るんだあ」

「キミコさん、今日はうちに帰ったほうがいいよ」

「あんたは勝手に帰ればいいじゃない、あたしは友だち呼ぶからさ」

 携帯を出して振り回している。

「もう遅いから迷惑だよ」

「うっさいわね、もういいってば」


 そこまで細かく会話の内容が聞こえたわけではないが、だいたいそんなやり取りをしているようだ。

 Uターンしてその場を離れようかとも思ったが、自分が隠れる必要もない。

 電車が通りすぎてサンジが普通に歩いていくと、男のほうが気づいて、目で小さく礼をした。

(なんだ、礼儀正しい人なんだな)

 サンジも目で(お疲れさま)と軽く礼を返した。

 キミコは携帯で誰かを呼び出そうとしていて、こちらを見ていない。

 まだその場に立ち止まっているふたりを後にした。


(あれがおれじゃなくてよかった、ってとこか)

(警戒センサーがはたらいたということかな……)

 それではキミコに対して失礼すぎるかもしれない。

(あれであのふたりはうまく行っているのかもな、余計なお世話だ)

 こんどイチさんの店で会うことがあったら、普通に接すればいいと思った。


 パン、コンビーフ、いわしの水煮の缶詰などを買う。

 いつかヨウジが言っていたように、適当にサンドイッチのようにして食べるつもりだ。

(こんど、智佳と一緒にやってみるかな)

 あと、缶ビールと煙草を買って店を出た。


 サンジは、自分の部屋に帰った。

 座ってみるとパンを取り出す気はなくなっていて、ビールだけを手にとった。

(朝、起きられたら食うか……じゃなくっても一日は()つだろう)

(キミコさんはおとなしく帰ったかな、あの様子じゃ無理か……)


 このあいだ智佳に買ったシュタイフは、手提げ袋に入ったままデスクの横に置いてある。

(いつ渡すかな、わざわざ誕生日っていわなくても、その前後にやればいいか)

 まだ眠りにつける感じはしない。

 仕事がけっこうきつくなっていて、いま寝るとコマンドやタグが頭の中を走り出してしまう。

 決してありえないプログラムがどうどう巡りをして、サンジを苦しめる。

 そういう日が続いていた。



「あんたはそれで面白いわけ?」

 先刻のイチさんとの会話を思い出した。

「それでって、イチさんに何がわかるんだ」

「もう自分は倖せになれないんだって、決めつけてるような気がする」

「そりゃ、うわぁ楽しいよって感じにはならないけどね」

「そうでしょう」

「でもそんなもんだろ、倖せにならなきゃいけないとか、なんでなれないんだろうとか、考えちゃったら苦しいんだろうけど」

「みんなそうなのに、あんたは苦しもうとしないんだよ」

「そうか? なんでそこまで言うかなあ」

 サンジは少し考えて、次のような内容のことを喋った。


 自分が幸福(しあわせ)だったとして、いま私は幸福だなんて意識しないと思うんだ。

 毎日ぶつぶつ文句を言っていて、それでけっこう楽しかったりするんだよ。

 その時は一生懸命だから気がつかないけど、あとになってから、ああ、あの時代は幸福だったなあって、そんなもんじゃないかな。

 ほんの少し楽しいことがあれば、人間ってがんばれるじゃないか。

 あと、十人に一人か、百人に一人でもいいや、自分を好きでいてくれる人がいればさ。


「欲があるようなないような、へんな人だねえ、あんたは」

「イチさんにはかなわないよ」

「でも、そうやって言えるあんたは、きっと倖せなほうなんだろうね」

「それじゃまるで、呪われてるみたいだな」

 いつもそういうことを話しているわけではないが、二年か、三年に一度くらいイチさんが仕掛けてくる議論だ。



 もう眠らなくてはいけないなと思いながら、サンジは考える。

 たとえば智佳、彼女の生活がサンジの想像より荒っぽいものなのか、意外とお気楽なものなのか、それはわからない。

 何があってもあのおっちゃんは自分のことを好きだ、そう思えていたら、彼女もいくらかラクなのではないだろうか。

 一年も二年もほうっておかれることがあるから、たよりないお伽噺(とぎばなし)みたいな話だけれど。


(かっこよくくたばるなんてことはできないんだから)

(とにかく、やっていこう……)


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