12 Old Brown Shoe
電車に乗っていて、なんとなく他人の靴を見比べている。
そんな時が誰にでもあるのではないだろうか。
靴というのはわりと人が見るところだとサンジは思う。
接客業のプロは靴やカバンを見て客のランクを判断するともいう。
とくに女の人たちがそこに気を使うのは、当然なのかもしれない。
けれど、サンジの革靴は紐がほつれていた。
よく見ると編み紐のような素材で、その先端から割れてしまっている。
それしかないわけではないが、慣れていていつも履く靴だ。
ひと月くらい前には気づいていた。
忙しくしていたせいもあって買い替えるきっかけがなかった。
ある日曜日、歩いていて自分の足元に目が行った。
これでは履き物を脱いで上がる場所へは行けない。
靴自体はそんなに傷んでいないので、紐だけ替えればいいかと思った。
靴屋で紐だけ売っていますかと訊くのは、なにか気が引けた。
どこへ行けば買えるのだろう。
昔ながらの洋品店、雑貨屋、そんな感じのところか。
最近よくある百円均一のショップが目に入った。
その二階にそれ以外の雑貨の売場があって、そこで見つけることができた。
(思い立ってみれば、簡単なんだけど)
(なかなかその気にならないんだよな)
手に入れてみるとすぐに替えたくなった。
近所の公園に入ってベンチに座り、新しい紐を通し、結び直す。
(これでどこでも行けるぞって……なに言ってんだかな、おれは)
よれた古い紐を公園の屑入れに捨てて、歩きはじめる。
サンジは休日で、近所へ買い物に出ていた。
智佳が自分の部屋に来ている。
けっしてロマンチックな状況ではなかった。
サンジのところに行ってもいいかと電話してきた彼女は、すぐにやってきた。
住所をだいたいは知っていて、もう近くまで来ていたようだ。
鞄ふたつだけの荷物を持って、とりあえず泊まる場所がないという。
「何日か休ませてもらえない?」
いまどき、からだ一つで水商売をしていて、急に宿を失くしてしまうような人間がいるかというと、意外といる。
サンジは目の前のことというより、少し遠い感覚で、そんなふうに考えた。
智佳はいままで、自分にカネの無心などをしたことはない。
(きっと、こういう時のためにとっておいてくれたんだろう)
ほかに頼る人間がいないほど困っているともいえる。
「まぁ、とにかく寝たほうがいいな」
ろくに睡眠をとっていないようだし、食事もしていないのではないだろうか。
やばい筋からの追っ手でもかかっていなければいいがと思った。
買い物袋を提げて部屋に戻ると、智佳はサンジが敷いた布団に入っていた。
泊まりの客がくることなどないが、余分が一組あってよかったと思う。
(大きな口あけて寝てたりしてな)
背中を向けている彼女の顔を見ようとして、少し覗き込む姿勢になった。
智佳はゆっくり向き直って、サンジの首に腕を絡めた。
「……一緒に寝る?」
「ま、そのうちな」
「なに、それ、キメる時はキメなきゃダメだよ……」
「いまおまえ、それどこじゃないだろ」
顔が少しほてっていて、風邪もひいていそうだった。
「メシ作るから、食えたら食えよ」
(病人にチャーハンはまずいかな……)
具はハムの角切りとねぎだけで、卵をからめて軽く塩を振る。
ご飯粒をぱらぱらになるまで炒めることはせず、ふんわりと仕上げる。
油もごく少量で、自分ではあっさりとして美味いと思うから、それを作った。
トマトとレタスのサラダに、インスタントのスープを添えた。
「起きられるか?」
「ちょっと待って、顔を洗っちゃう」
智佳は、化粧ポーチを持って洗面所に行った。
クレンジングを使って化粧を落としてきた彼女の顔を、サンジは見た。
思ったより肌が白く、小さなほくろが透けている。
「ふーん」
「なに、がっかりした?」
「いや、そんなに印象かわらないし、すっぴんの方が若く見えるな」
「だって、若いんだもん」
智佳はサンジの作った食事を摂った。
「こういうの作れるんだぁ」
「料理っていうほどのもんじゃないけどな」
「でも美味しいじゃん、こういうの久しぶりに食べたよ」
店を転々として深夜まで働く生活で、自炊もしていなかったのだろう。
「夜は出前でも取ってやるよ……もっと食えるか」
チャーハンの皿は見る間に空になっていた。
「すいません、お願いします」
「なんでそこだけ敬語なんだ」
サンジは笑って、もう一度、台所に立った。
サンジは、自宅から電車でふた駅先に出かけている。
近所のスーパーに出入りするのは少し飽きた。
そこに大きめの総合食料品店があったはずだと思い出した。
(食材を補充して……ワインやチーズも買うか)
智佳が自分の部屋にやってきてから、四日目になる。
風邪をひいていたのも治ってきたようだから、少し飲ませてもいいかと思った。
あれこれと食品を選びながら、サンジは考えた。
(このまま、うちに住まわせといてもいいけど……)
(アパートを借りてやるという手もあるか)
(でないと、もう少しまともな仕事に就くこともできないだろうし……)
サンジは頭の中で、あまり潤沢とはいえない預金通帳の中身を検討している。
そういう自分の考えが、智佳にとってどういう意味をもつかはわからない。
(十年前だったら、おまえ、ずっとここにいろよって、それでよかったけど)
(おれが面倒をみるというより、自分の足で立てるようになってほしいし……)
いまの自分は、よくも悪くも現実的にものごとを進めていくしかない。
両手に買い物袋を抱えて、電車に乗る。
(プロフェッサー・ヒギンズは、こんなことしないんだが)
ついこの間、智佳とのことを『ティファニーで朝食を』みたいだと思った。
その続きで、今度は『マイ・フェア・レディー』をやっている……。
浮かれた気分でそんなことを考えているわけではない。
実際には洒落にならない状況を、笑いごとにできたらいいと思っている。
部屋に戻ると、智佳の姿はなく、ふたつの鞄もなくなっていた。
サンジは『男の簡単料理365日』をテーブルの上に投げ出した。
さっきレジの前で目について買った本だ。
座って煙草を一本喫った。
それから、立ち上がって買い物袋の中身を分け、冷蔵庫に入れるものは入れた。
コーヒーを淹れ、もう一度座った。
見回してみたが、書き置きのようなものはない。
携帯をとって少し考えてから、智佳の番号を押し、一回目の呼び出しで切った。
”Old Brown Shoe” The Beatles, 1970




