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10 Voice

 

「じゃあ、時間までいなよ」

 頭の上から智佳(ちか)の声が降ってきた。

 飲食店や酒場の集まっているビルで、サンジは三階の踊り場に立っていた。

 遅い夕食を取ろうとしていた。

 智佳は吹き抜けになっている階段の、すぐ上の階にいるのだろう。

 彼女は以前もこの街で働いていたことがあった。

 だから、偶然といってもたいしたことはない。


 店の客に延長を(うなが)しているのかと思ったが、そうではないらしい。

 いったん外に出た客を引き止めるというケースはそうない。

 店の同僚の女の子と話しているのだろう。

 相手の返事は、ざわめきに混ざって聞き取れない。

 智佳の声だけが輪郭をもって聞こえてくる。

 自分が知っているからなのだろうけれど。

(行って声をかける……なしだな)

 サンジはエレベーターに乗って地上に降りた。



 本当に、気がついたらという感じだった。

 サンジは地元に戻って、イチさんの店のカウンターに座っていた。

 最近は、身体が勝手に刻まれたコースをたどっている気がする。

 暑い中をほとんど休みなく動いていて、何も考える暇がない。

 梅割りを口に運びながら、今日あったことを少しずつ思い返す。

 どこかから聞こえてきた智佳の声。


(何もなかったといえば、何もない)

 とにかく自分のことをしなければならない、それだけだ、そう考える。


 そこへ、いつも決まった時間に来る女の人がやってきた。

 もう中年といっていい年齢にさしかかっていると思う。

 どうもとだけ言って座った彼女の前に、イチさんがお冷やとお新香を出す。

 まもなく、焼き魚か何かと白いご飯が出されることになっている。


 彼女はある日ふらりと入ってきて「食事だけできるでしょうか」と言った。

 うちはお酒を出す店だから、そう言って普通は断るのだが、イチさんは受けた。

 あとでわかったところによると、彼女は昼間、近場で仲居さんをしている。

 夜は隣町の、昔ながらのクラブに勤めていた。

 勤めの合間に食事をとる適当な場所がなくて困っていたのだ。

 最初から彼女がそう説明したわけではなくて、イチさんが雰囲気で察した。


「ごちそうさまでした」

 五百円玉をそっと置いて、彼女は席を立つ。

 彼女は何度かもう少し払うと言ったのだが、イチさんがそれしか取らない。


 彼女が去ったあとの店は、サンジとイチさんのふたりきりになった。

 ほんの少し眼を見合わせたが、イチさんは何も喋らずに背中を向けた。

(べつに親切でもないし、同情するほど何様でもないし、そういうお客さんもいていいってことだよ)

 そんなふうにイチさんは言いたいので、そういう時、彼はひどく不機嫌になる。

(もう少し素直に照れてくれりゃいいもんを……でもまあ、イチさんらしいか)



 アパートに帰った。

 サンジの部屋には、母親の形見の鏡台が置かれている。

 およそほかの家具とは合わない年代物だ。

 離れて生活していた彼女が亡くなったあと、ほかに引き取り手もなかったのでここに運ばれてきた。

(誰が見るわけじゃないが、バラして姿見にでもするか)

 鏡台そのものには執着がない。


 家出人捜索程度では、いなくなった人はそう見つからない。

 その人が何かの事情で亡くなった時は比較的すぐに連絡がくる。

 引取人が必要だからだ。


 サンジはなんとなく、鏡と向かい合う位置に座っている。

 とくに自分の顔を見てはいなかった。


 後ろに誰かが立ったような気配がする。

 二の腕から先がひらりと見えた気がした。

(智佳?)

 そんなはずはないとわかっている。

 それでも、ゆっくりと振り返ってみる。

 ほかに誰もいない部屋の、動かない空気を見る。

 煙草に火をつけた。

 煙が昇って、流れる。


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