第9話 全部失った日
第9話 全部失った日
人間は、どこまで失えば現実を受け入れるのだろう。
拓海は工場の事務所で一人そう考えていた。
もう朝なのか夜なのかも分からない。
窓の外では蝉が鳴いている。
真夏だ。
けれど拓海には暑さすら感じなかった。
机の上には書類の山。
督促状。
請求書。
契約解除通知。
銀行からの通知。
どれも見慣れてしまった。
見慣れたくなどなかったのに。
かつてここには活気があった。
職人たちの笑い声があった。
機械の音が響いていた。
父が守ってきた会社だった。
創業五十年。
地元では知らない人のいない町工場だった。
それが今は違う。
工場の半分は止まっている。
職人は消えた。
受注も消えた。
残ったのは借金だけだった。
その時、玄関のドアが開く音がした。
数人の男たちが入ってくる。
スーツ姿。
無表情。
胸元の身分証。
拓海は一瞬で理解した。
税務署だ。
「相沢拓海さんですね」
「……はい」
「税務調査に参りました」
その言葉に力が抜ける。
ついに来た。
いつか来ると思っていた。
栞の調査報告書。
美香の経費不正。
帳簿の混乱。
請求漏れ。
全部が原因だった。
「ご協力をお願いします」
拒否する気力もなかった。
職員たちは淡々と書類を確認していく。
パソコン。
帳簿。
領収書。
次々に運ばれていく。
事務所の空気は重かった。
社員たちも顔色を失っている。
昼になっても誰も話さない。
コンビニの弁当を広げても箸が進まない。
冷めた唐揚げ。
しんなりしたキャベツ。
味など分からなかった。
夕方。
税務署職員の一人が言った。
「かなり問題がありますね」
拓海は何も言えない。
「私的利用の経費計上」
「売上管理不備」
「記録の欠落」
聞いているだけで胃が痛くなる。
数日後。
結果が出た。
追徴課税。
重加算税。
合計金額を見た瞬間、拓海は椅子から立ち上がれなくなった。
「無理だ……」
そんな金額払えるわけがない。
絶対に無理だ。
さらに追い打ちが来る。
銀行だった。
「申し訳ありません」
担当者が頭を下げる。
「融資継続はできません」
拓海は力なく笑った。
「そうですか」
怒る気力もない。
「長い間ありがとうございました」
担当者は本当に申し訳なさそうだった。
だが銀行は慈善事業ではない。
沈む船には乗れない。
それだけだ。
そして翌週。
最後の希望だった取引先が撤退した。
電話一本だった。
「契約更新は見送ります」
たったそれだけ。
それだけで終わった。
売上のほとんどが消えた。
もう会社を維持できない。
その夜。
工場長の佐々木が社長室へやって来た。
疲れ切った顔だった。
十歳は老けたように見える。
「社長」
「……」
「もう限界です」
拓海は頷いた。
言われなくても分かっていた。
「工場を閉めましょう」
その言葉が胸に突き刺さる。
父の顔が浮かんだ。
油まみれの作業服。
大きな手。
豪快な笑い声。
子供の頃、よく肩車してくれた。
『この工場はお前に任せる』
そう言われた日のことを思い出す。
涙が出そうになった。
だが泣く資格などない気がした。
「……そうだな」
拓海は答えた。
声が震えた。
数日後。
全社員を集めた。
工場の休憩室。
並ぶ社員たち。
皆、何となく察している。
拓海は頭を下げた。
「会社を畳みます」
静まり返る。
誰も驚かなかった。
ただ深いため息が聞こえた。
「申し訳ありませんでした」
その瞬間だった。
誰かが泣き始めた。
創業以来働いてきた女性社員だった。
「好きだったのに……この会社」
その言葉が痛かった。
皆が好きだったのだ。
会社を。
仲間を。
仕事を。
それを壊したのは自分だった。
工場閉鎖の日。
シャッターが下ろされる。
長年動き続けた機械が止まる。
金属の匂い。
油の匂い。
全てが終わる。
拓海は最後まで残った。
無人になった工場を見回す。
静かだった。
あまりにも静かだった。
数か月後。
自己破産手続きが完了した。
実家も失った。
車も失った。
貯金も消えた。
友人も消えた。
携帯の連絡先はほとんど反応しない。
飲み仲間だった連中も来ない。
取引先も来ない。
誰もいなくなった。
そして婚約者だった美香。
彼女からは一度も連絡がなかった。
拘置所から謝罪の言葉すらなかった。
利用されただけだったのだ。
ある日の夕方。
拓海は古いアパートの一室で一人カップ麺をすすっていた。
狭い部屋。
剥がれた壁紙。
古い扇風機。
以前の生活とは比べ物にならない。
窓の外では子供たちの笑い声が聞こえる。
その時だった。
テレビに栞の姿が映った。
経営再建コンサルタントとして取材を受けている。
落ち着いたスーツ姿。
自信に満ちた笑顔。
眩しかった。
拓海はテレビを見つめる。
そしてようやく理解した。
会社を失ったからではない。
家を失ったからでもない。
本当に失ったものは別だった。
十年間、自分を支えてくれた人。
どんな時も味方だった人。
その人を自分の手で追い出した。
全てはそこから始まった。
カップ麺の湯気が静かに立ち上る。
拓海はうつむいた。
そして誰もいない部屋で初めて泣いた。
創業五十年の会社が消えた日。
それは同時に、拓海が本当に何を失ったのかを知った日でもあった。




