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第10話 もう振り返らない

第10話 もう振り返らない


 人は変われる。


 だが、失ったものが戻るわけではない。


 拓海は朝五時に目を覚ました。


 狭いアパートの天井が目に入る。


 黄ばんだ壁紙。


 薄いカーテン。


 古い扇風機。


 窓の外からは新聞配達のバイクの音が聞こえていた。


 部屋の広さは六畳ほど。


 かつて住んでいた実家の広い一軒家とは比べ物にならない。


 だが今の自分には十分だった。


 いや、十分でなければならなかった。


 拓海はゆっくりと起き上がる。


 鏡を見る。


 そこには疲れた男がいた。


 以前は毎月美容室へ通い、高価なスーツを着ていた。


 今は違う。


 色褪せた作業着。


 日に焼けた肌。


 荒れた手。


 日雇いの建設現場で働くようになって一年が過ぎていた。


 朝食は簡単だった。


 食パン二枚。


 インスタントコーヒー。


 ゆで卵一つ。


 質素な食事。


 それでも食べられるだけありがたい。


 そんなことを考えるようになった。


 以前なら想像もしなかったことだ。


 現場へ向かう途中。


 駅前の花屋の前を通る。


 紫陽花が並んでいた。


 青。


 紫。


 白。


 雨上がりの朝日に濡れて美しく輝いている。


 その光景を見た瞬間。


 栞の顔が浮かんだ。


 花が好きだった。


 季節の花を見るたび嬉しそうに笑っていた。


『この色、綺麗だね』


 そんな声が聞こえる気がした。


 拓海は足を止める。


 そして苦笑した。


「今さらだよな」


 呟いて歩き出す。


 後悔しない日はなかった。


 もしあの日。


 創業記念パーティーであんなことを言わなければ。


 もし栞を大切にしていたら。


 もし感謝を伝えていたら。


 会社は残っていただろう。


 父の工場も。


 母の家も。


 仲間も。


 そして栞も。


 だが現実は変わらない。


 昼休み。


 現場の休憩所で弁当を開く。


 白いご飯。


 卵焼き。


 ウインナー。


 漬物。


 近所のスーパーで買った五百円の弁当だ。


 隣では若い作業員たちが笑っている。


 その声を聞きながら拓海は空を見上げた。


 青かった。


 どこまでも青かった。


 一方その頃。


 栞は都内の高級ホテルにいた。


 初夏の風が吹き抜けるテラス席。


 白いパラソル。


 鮮やかな緑。


 遠くに見える青空。


 テーブルには色鮮やかな料理が並んでいた。


 ローストビーフ。


 魚介のマリネ。


 彩り豊かなサラダ。


 焼きたてのパン。


 グラスの中には冷えたスパークリングウォーター。


 今日は特別な日だった。


 独立から一年。


 経営コンサルタントとして順調に実績を積み重ねていた。


 企業再建の成功事例も増えた。


 顧客からの信頼も厚い。


 そして何より。


 自分自身を大切にできるようになった。


「高瀬さん」


 声が掛かる。


 黒川だった。


 相変わらずきっちりしたスーツ姿だ。


「今日は本当におめでとうございます」


「ありがとうございます」


 栞は微笑んだ。


「高瀬さんが独立すると聞いた時は驚きましたけど」


「私もです」


「今じゃ立派な経営者ですね」


 周囲から笑い声が上がる。


 同業者。


 取引先。


 仲間たち。


 誰も栞を利用しない。


 誰も見下さない。


 それが何より嬉しかった。


 乾杯の時間になる。


 グラスが鳴る。


「おめでとうございます!」


「ありがとうございます」


 穏やかな時間だった。


 その時。


 スマートフォンが震えた。


 ニュースアプリの通知。


 何気なく画面を見る。


 そこには見覚えのある名前が表示されていた。


『元町工場社長、再出発』


 小さな地方ニュースだった。


 拓海の記事だった。


 建設現場で働く姿が映っている。


 以前のような派手さはない。


 だが真面目に働いているらしい。


 栞は数秒だけ画面を見つめた。


 胸の奥に微かな痛みが走る。


 十年。


 長かった。


 楽しかったこともあった。


 幸せだった思い出もあった。


 全部が嘘だったわけではない。


 それだけは分かる。


 けれど。


 もう終わった話だった。


 栞はそっと画面を閉じる。


 そしてスマートフォンをテーブルに置いた。


「どうかしました?」


 黒川が尋ねる。


 栞は首を横に振る。


「いいえ」


 そして微笑んだ。


「ただ、昔の知り合いを思い出しただけです」


 それ以上は何も言わない。


 言う必要もなかった。


 風が吹く。


 初夏の爽やかな風だった。


 木々の葉が揺れる。


 空は眩しいほど青い。


 栞はゆっくりと空を見上げた。


 不思議なくらい心が軽かった。


 誰かに選ばれることを待つ人生は終わった。


 誰かの期待に応えるためだけに生きる人生も終わった。


 これからは自分のために生きる。


 自分の足で歩く。


 それでいい。


 グラスを持ち上げる。


 仲間たちの笑顔が見える。


 未来が見える。


 もう振り返らない。


 失った恋も。


 失った十年も。


 全部含めて今の自分がいる。


 だから前へ進む。


 眩しい青空の下で。


 新しい人生へ向かって。




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