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エピローグ 新しい契約

エピローグ 新しい契約


 幸せというものは、案外静かにやって来る。


 栞は窓を開けながら、そんなことを思った。


 柔らかな春の風が部屋の中へ流れ込んでくる。


 レースのカーテンがふわりと揺れた。


 窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。


 ラベンダー。


 ミニバラ。


 ローズマリー。


 どれも元気に育っていた。


 朝日を浴びながら、栞は深く息を吸う。


 花の香り。


 淹れたてのコーヒーの香り。


 焼きたてのトーストの香ばしい匂い。


 穏やかな朝だった。


 数年前の自分なら信じられなかったかもしれない。


 あの頃はいつも誰かのために走っていた。


 会社のため。


 拓海のため。


 社員のため。


 けれど今は違う。


 まず自分の人生を生きている。


 それがこんなにも心地良いことだとは知らなかった。


 テーブルには朝食が並んでいた。


 スクランブルエッグ。


 ベーコン。


 トマトとレタスのサラダ。


 温かなコーンスープ。


 そして焼きたてのクロワッサン。


 その時、インターホンが鳴った。


「おはようございます」


 玄関を開けると黒川が立っていた。


 休日らしくジャケット姿だ。


 手には紙袋を持っている。


「おはようございます」


「近くの店で買ったんです」


 紙袋の中には焼き菓子が入っていた。


 栞は思わず笑う。


「ありがとうございます」


「迷惑でした?」


「いいえ。嬉しいです」


 二人はリビングへ入った。


 以前なら考えられなかった光景だった。


 黒川は栞の独立を支えてくれた。


 苦しい時も相談に乗ってくれた。


 成功した今でも変わらず隣にいてくれる。


 焦らない。


 急がせない。


 利用しない。


 そんな人だった。


 朝食を食べながら仕事の話をする。


「来月の講演会、申し込みがかなり増えているそうですね」


「びっくりしました」


「高瀬さんの再建事例は有名ですから」


 栞は苦笑した。


「そんな大げさな」


「大げさじゃありません」


 黒川は真面目な顔で言った。


「あなたが救った会社は本当に多いんです」


 その言葉が少し照れくさい。


 けれど嬉しかった。


 昔の自分は数字ばかり見ていた。


 今も数字を見る。


 だが意味が違う。


 誰かを支えるための数字だ。


 昼前。


 二人は近くの公園を散歩した。


 桜は終わっていたが、新緑が眩しい。


 子供たちの笑い声が響く。


 犬を連れた夫婦が歩いている。


 平和な光景だった。


「そういえば」


 黒川が言った。


「最近、相沢さんの話を聞きました」


 栞は足を止めなかった。


「そうですか」


「建設会社で真面目に働いているそうです」


「そうなんですね」


 驚くほど心が動かなかった。


 怒りもない。


 憎しみもない。


 悲しみもない。


 ただ遠い昔の話を聞いているようだった。


「会いたいと思いますか?」


 黒川が尋ねる。


 栞は少しだけ考える。


 風が吹く。


 若葉が揺れる。


 青空が広がっている。


「いいえ」


 自然に答えが出た。


「もう終わったことなので」


 それが本音だった。


 許したとか許していないとかではない。


 終わったのだ。


 過去になった。


 だから戻る理由もない。


 その日の夕方。


 栞はホテルで開かれる経営者交流会へ参加していた。


 白いブラウスに淡いブルーのジャケット。


 ネイビーのスカート。


 春らしい装いだった。


 会場には多くの経営者が集まっている。


 料理の香りが漂う。


 ローストビーフ。


 海老のマリネ。


 色鮮やかなオードブル。


 グラスの中では炭酸が小さな音を立てていた。


 会話が弾む。


 笑顔が広がる。


 そんな中、栞はふと窓の外を見た。


 夕焼けだった。


 空が金色に染まっている。


 綺麗だった。


 あの日とは違う。


 創業記念パーティーの日。


 あの日も綺麗な夜景だった。


 だが胸は苦しかった。


 今は違う。


 胸の中が温かい。


 自由だった。


 自分で選んだ人生だからだ。


「高瀬さん」


 黒川が近づいてくる。


「少しお話があります」


「何でしょう?」


 黒川は珍しく緊張していた。


 そして深呼吸する。


「仕事の契約ではないんですが」


 栞は思わず笑った。


「はい」


「これから先も、隣にいてもいいですか」


 一瞬だけ時間が止まった気がした。


 周囲の喧騒が遠くなる。


 窓の外の夕焼け。


 料理の香り。


 柔らかな音楽。


 全部が優しく溶けていく。


 栞はゆっくり微笑んだ。


「それは長期契約になりますよ」


 黒川も笑う。


「望むところです」


 二人のグラスが静かに触れ合う。


 澄んだ音が響いた。


 栞は窓の外を見る。


 空はどこまでも広かった。


 十年間の恋は終わった。


 けれど人生は終わらない。


 裏切られた日も。


 泣いた日も。


 失った日々も。


 全部が今へ繋がっている。


 だから前を向ける。


 新しい契約。


 新しい仲間。


 新しい未来。


 その全てを胸に抱きながら、栞は静かに微笑んだ。


【完結】



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