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第8話 愛人は真っ先に逃げた

第8話 愛人は真っ先に逃げた


 人は本当に追い詰められると、眠れなくなるらしい。


 拓海は社長室のソファに横になりながら天井を見つめていた。


 時計は午前二時を回っている。


 エアコンの低い運転音だけが静かに響いていた。


 家へ帰る気になれなかった。


 帰れば母親がいる。


 心配そうな顔で、


「会社は大丈夫なの?」


 と聞いてくる。


 その問いに答える勇気がなかった。


 大丈夫ではないからだ。


 むしろ最悪だった。


 最大取引先との契約終了。


 銀行融資の停止。


 職人の大量退職。


 そして八百万円を超える請求。


 机の上には未払いの請求書が積み上がっている。


 見たくない。


 だが目を逸らしても消えない。


 拓海は目を閉じた。


 すると栞の顔が浮かんだ。


『私が助けていた十年間は見えなかったの?』


 あの言葉が頭から離れない。


 思い出すたび胸が痛む。


 なぜあんなことを言ったのか。


 なぜ皆の前で笑ったのか。


 今さら後悔しても遅い。


 そんなことは分かっていた。


 その時だった。


 スマートフォンが鳴る。


 時刻は午前三時。


 嫌な予感しかしない。


「もしもし」


 電話の向こうで叫び声が聞こえた。


「社長!」


 佐々木工場長だった。


「大変です!」


「何だよ!」


「金庫の現金がなくなっています!」


 拓海は飛び起きた。


「は?」


「現金です!」


「いくらだ!」


「三百万円近くです!」


 拓海の頭が真っ白になる。


 慌てて工場へ向かった。


 夜明け前の工場は不気味なほど静かだった。


 事務所の蛍光灯だけが白く光っている。


 社員たちは青ざめた顔で集まっていた。


「どういうことだ」


 佐々木が監視カメラの映像を再生する。


 映し出された人物を見て、拓海は息を呑んだ。


「美香……」


 そこには大きなバッグを抱えた美香が映っていた。


 金庫を開ける。


 札束を詰め込む。


 周囲を確認する。


 そして逃げる。


 全て映っていた。


「嘘だろ……」


 拓海は呟く。


 何度も画面を見直した。


 だが現実は変わらない。


 美香だった。


 間違いなく美香だった。


 昼過ぎ。


 警察へ被害届を提出する。


 事情聴取。


 書類作成。


 拓海は疲れ果てていた。


 その頃。


 美香は駅前のホテルにいた。


 高級ブランドのバッグ。


 新しいワンピース。


 現金を持って逃げれば何とかなる。


 本気でそう思っていた。


「これで自由になれる」


 スマートフォンを取り出す。


 新しい男へ連絡しようとした。


 その時だった。


 部屋のチャイムが鳴る。


「はい?」


 ドアを開けた瞬間。


 そこに立っていたのは警察官だった。


「藤崎美香さんですね」


 美香の顔色が変わる。


「え?」


「お話を伺いたいことがあります」


「私は何も……」


「業務上横領の疑いがあります」


 その言葉で膝が震えた。


 逃げようとする。


 だが逃げられない。


 既に包囲されていた。


 手首に冷たい感触が伝わる。


「嘘……」


 美香は呆然と呟いた。


 そして泣き始める。


「社長が悪いの!」


「私は悪くない!」


 誰も聞いていなかった。


 その日の夕方。


 拓海は警察署で報告を受けた。


「被疑者の身柄を確保しました」


 警察官が言う。


 拓海は力なく椅子に座った。


 安心したわけではない。


 むしろ絶望だった。


 最後まで信じていた相手が自分を裏切った。


 しかも会社の金を盗んで。


 あまりにも惨めだった。


 外へ出る。


 夕暮れの空が赤く染まっていた。


 夏の熱気がアスファルトから立ち上る。


 その時、母親から電話が掛かってきた。


「拓海!」


 泣き声だった。


「どうしたんだよ」


「家に変な人が来たの!」


 胸騒ぎがした。


「変な人?」


「書類を置いていったの!」


 急いで実家へ向かう。


 築四十年の一軒家。


 庭の紫陽花は既に色褪せていた。


 玄関を開ける。


 母親が泣きながら封筒を握っていた。


「これ……」


 差し出された書類を見る。


 差押予告通知。


 債権回収手続開始。


 法的措置。


 そんな文字が並んでいる。


 拓海は血の気が引いた。


「そんな……」


 母親が崩れ落ちる。


「お父さんが残してくれた家なのよ」


 涙が畳に落ちる。


「どうしてこんなことになるの……」


 拓海は答えられなかった。


 答えを知っていたからだ。


 全部自分のせいだった。


 夜。


 母親はほとんど食事を取れなかった。


 味噌汁だけを少し口にする。


 冷や奴も残した。


 拓海も食欲がない。


 食卓には焼き魚と煮物が並んでいる。


 だが箸が進まない。


 重苦しい沈黙だけが続く。


「栞ちゃんは優しかったわね」


 母親がぽつりと呟いた。


 拓海の肩が震えた。


「……」


「あの子、いつも会社のこと考えてた」


「やめてくれ」


「どうしてあんなこと言ったの?」


 その問いに答えられない。


 自分でも分からないからだ。


 ただ調子に乗っていた。


 それだけだった。


 その夜。


 栞は自宅で夕食を食べていた。


 鶏肉と野菜のトマト煮。


 サラダ。


 焼きたてのバゲット。


 仕事帰りに買った白桃。


 窓からは涼しい夜風が入ってくる。


 静かな時間だった。


 テレビではニュースが流れている。


 だが栞は見ていない。


 もう相沢製作所のことを四六時中考える生活は終わった。


 それでも。


 どこかで分かっていた。


 崩壊はもう始まっている。


 そして誰よりも残酷なのは、敵ではない。


 味方だと思っていた人間の裏切りなのだと。


 一方その頃。


 拓海は暗い自室で一人天井を見つめていた。


 愛人は逃げた。


 金は消えた。


 家には差押予告。


 母親は泣き崩れた。


 そして会社には、もう未来が残されていなかった。



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