表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/11

第6話 あなたの会社はもう終わっています

第6話 あなたの会社はもう終わっています


 胃が痛かった。


 朝から何も食べていないのに、胃の奥だけが重たくねじれているようだった。


 拓海は高速道路を走る車の中でハンドルを握りしめていた。


 窓の外には真夏の青空が広がっている。


 白い雲がゆっくり流れているというのに、拓海には景色を楽しむ余裕などなかった。


 最大取引先である東都精密工業。


 売上の三割以上を占める重要顧客だ。


 もしここを失えば会社は終わる。


 本当に終わる。


 その事実を、拓海はようやく理解し始めていた。


「大丈夫ですよ」


 助手席の美香が言った。


 今日は白いブラウスにタイトスカートという営業らしい服装をしている。


 だが以前のような余裕はなかった。


「長い付き合いなんですから」


「……そうかな」


「絶対大丈夫です」


 美香は笑った。


 だがその笑顔もどこか引きつっている。


 拓海は小さくため息を吐いた。


 会社の預金残高は減る一方だった。


 銀行融資は止まった。


 職人は辞め続けている。


 請求書の発行もまだ混乱している。


 そして栞からの請求書。


 八百万円。


 考えるだけで頭が痛かった。


 東都精密工業の本社ビルは都心の一等地に建っていた。


 ガラス張りの高層ビル。


 磨き上げられたエントランス。


 冷房の効いたロビー。


 受付嬢の洗練された笑顔。


 その全てが拓海には遠い世界のように感じられた。


 受付を済ませると会議室へ案内される。


 広い部屋だった。


 大きな窓から都心の街並みが見渡せる。


 机の上には冷えたミネラルウォーター。


 革張りの椅子。


 静かな空気。


 拓海は汗ばんだ手を膝の上で握りしめた。


「社長、大丈夫ですか?」


 美香が小声で尋ねる。


「ああ」


 そう答えたものの、自信などなかった。


 しばらくして会議室の扉が開く。


 東都精密工業の役員たちが入ってきた。


 その後ろから現れた人物を見た瞬間、拓海は息を止めた。


「……栞?」


 思わず立ち上がる。


 そこにいたのは栞だった。


 ネイビーのパンツスーツ。


 白いブラウス。


 肩まで伸びた髪は綺麗に整えられている。


 以前のような地味な印象はなかった。


 いや、正確には違う。


 地味だったのではない。


 ただ自分が見ようとしていなかっただけなのだ。


 栞はまっすぐ前を見ていた。


 表情は穏やかだった。


 だが昔のように拓海だけを見る優しさはそこにはなかった。


「高瀬コンサルタント、本日はよろしくお願いします」


 役員が言う。


「よろしくお願いいたします」


 栞は落ち着いた声で答えた。


 その姿を見て、拓海は理解した。


 ここは自分の会社ではない。


 栞の方が重要な立場なのだ。


 会議が始まる。


 資料が配られる。


 拓海は必死に説明した。


「現在は一時的な混乱がありまして」


「体制を立て直しています」


「納期も改善されます」


 言葉を重ねる。


 だが役員たちの表情は冷たい。


 そして栞は一言も発しない。


 ただ資料に目を通している。


 その沈黙が恐ろしかった。


 説明が終わると役員の一人が言った。


「高瀬さん」


「はい」


「調査結果をお願いします」


 栞は立ち上がった。


 大型モニターに資料が映し出される。


 数字の羅列。


 グラフ。


 表。


 その全てが相沢製作所の現状だった。


「まず納期遅延です」


 栞の声は静かだった。


「過去二か月で二十三件」


 画面が切り替わる。


「請求ミス九件」


「誤納品七件」


「受注情報消失三十七件」


 拓海の顔から血の気が引いていく。


 さらに栞は続けた。


「顧客情報流出の疑い」


「退職者増加」


「資金繰り悪化」


「銀行融資停止」


 全て事実だった。


 反論できない。


 数字は嘘をつかない。


 そして誰よりもその数字を知っているのが栞だった。


「以上の調査結果から」


 栞は資料を閉じた。


「相沢製作所は現在、重要取引先としての基準を満たしていません」


 会議室が静まり返る。


 拓海は慌てて立ち上がった。


「待ってくれ!」


 役員たちが眉をひそめる。


「改善します!」


「時間をください!」


「うちは昔から――」


 その時だった。


 栞が初めて拓海を見た。


 その瞳には怒りも憎しみもなかった。


 ただ冷静な現実だけがあった。


「相沢社長」


「栞……」


「ここは仕事の場です」


 その言葉が胸を刺す。


「感情論では判断できません」


「でも!」


「数字を見てください」


 栞は静かに言った。


「数字が答えです」


 拓海は言葉を失った。


 昔、何度も聞いた言葉だった。


 だが自分は一度も真剣に聞かなかった。


 役員が結論を告げる。


「相沢製作所との契約は終了します」


 頭の中で何かが弾けた。


「待ってください!」


 拓海は叫ぶ。


「それだけは!」


 役員は首を横に振った。


「申し訳ありません」


 そして最後に栞が言った。


「御社との契約は終了です」


 静かな声だった。


 怒鳴り声よりもずっと重かった。


 会議は終わる。


 誰も引き留めない。


 誰も慰めない。


 拓海と美香だけが会議室に残された。


 窓の外では夏の太陽が眩しく輝いている。


 だが拓海には何も見えなかった。


 一方その頃。


 会議を終えた栞は役員たちと昼食を取っていた。


 ホテルのレストラン。


 窓際の席。


 焼きたてのパンの香り。


 魚料理のソースの香り。


 冷たいヴィシソワーズ。


 穏やかな会話。


「高瀬さんのおかげで助かりました」


「ありがとうございます」


 栞は微笑んだ。


 昔なら拓海のことを考えて心を痛めていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 仕事は仕事。


 契約は契約。


 それだけだった。


 窓の外に広がる青空を見上げながら、栞は静かにグラスの水を口に運ぶ。


 その頃、相沢製作所では一本の電話が鳴っていた。


 東都精密工業との契約終了通知。


 会社の未来を決定づける一枚の書類が、静かに送られてきていたのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ