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第5話 八百万円の請求書

第5話 八百万円の請求書


 嫌な予感というものは、案外当たる。


 しかも大抵は、自分が想像していたよりも悪い形で。


 相沢製作所の社長室で、拓海は朝から落ち着かなかった。


 窓の外は重たい曇り空だった。


 梅雨明け前の蒸し暑い空気が事務所の中まで入り込み、じっとりと肌にまとわりつく。


 机の上には銀行からの通知。


 取引先からの問い合わせ。


 未処理の書類。


 そして美香が買ってきた高級ドーナツの箱が置かれている。


 以前なら朝には片付いていた仕事が、今は山のように積み上がっていた。


「社長、お客様です」


 受付の女性社員が緊張した顔で言った。


「誰?」


「弁護士の先生です」


 その瞬間、拓海の胸がざわついた。


 嫌な予感がさらに強くなる。


 応接室へ向かうと、黒いスーツを着た男性が静かに座っていた。


 机の上には分厚い封筒。


「初めまして」


 男性は名刺を差し出した。


「黒川法律事務所の黒川と申します」


 その名前を聞いた瞬間、拓海の顔が歪む。


 栞だ。


 間違いない。


「高瀬さんの代理人として参りました」


「……何の用ですか」


 黒川は封筒を差し出した。


「請求書です」


 拓海は鼻で笑った。


「まだそんなこと言ってるんですか」


「ご確認ください」


 封筒を開く。


 数枚の書類。


 そして数字。


 その数字を見た瞬間、拓海の顔色が変わった。


「八百二十三万七千円?」


 思わず声が裏返る。


「貸付金五百万円」


 黒川は淡々と言う。


「未払い業務委託料百八十万円」


「待て」


「管理システムのライセンス利用料」


「ふざけるな!」


 拓海は机を叩いた。


 コーヒーカップが揺れる。


「こんな金額払えるわけないだろ!」


 だが黒川は微動だにしない。


「契約書に基づく正当な請求です」


「栞がそんなことするわけない!」


「既に依頼を受けています」


「脅しですか!」


「いいえ」


 黒川は静かに微笑んだ。


「法的手続きです」


 その一言が妙に重かった。


 拓海は何も言い返せない。


 黒川は立ち上がる。


「支払い期限は三十日後です」


「払わなかったら?」


「法的措置に移行します」


 それだけ言うと帰っていった。


 応接室に静寂が残る。


「社長?」


 美香が不安そうに覗き込んだ。


「何だったんですか?」


「栞だ」


 拓海は舌打ちした。


「本気で請求してきやがった」


「えー」


 美香は呆れたように笑った。


「性格悪いですね」


「だろ?」


「どうせ払わなくても大丈夫ですよ」


 その言葉に拓海は少し安心した。


 そうだ。


 栞は優しい。


 今までだって何だかんだで許してくれた。


 今回も同じだろう。


 そう思った。


 だが、その日の午後。


 事態はさらに悪化した。


「社長!」


 佐々木工場長が飛び込んでくる。


「大変です!」


「今度は何だよ!」


「システムです!」


「システム?」


「完全に止まりました!」


 拓海は慌てて事務所へ向かった。


 社員たちがパソコンの前で騒いでいる。


「ログインできません!」


「受注データが見られない!」


「納期が分からない!」


 画面には無情な文字が表示されていた。


【ライセンス契約終了】


【アクセス権限がありません】


 拓海の背中を冷たい汗が流れる。


「再起動しろ!」


「何度もやりました!」


「業者呼べ!」


「業者が作ったシステムじゃありません!」


 その言葉で全員が黙った。


 そうだ。


 このシステムは栞が作った。


 栞しか完全な構造を知らない。


「紙の資料は?」


「ありません!」


「何で!」


「全部システム管理だったんです!」


 佐々木が叫ぶ。


 事務所がパニックになる。


 電話は鳴り続ける。


「納期確認お願いします」


「注文内容変更したいんですが」


「請求書まだですか」


 誰も答えられない。


 受注情報が見えないのだ。


 翌日。


 工場はさらに混乱していた。


 加工する製品を間違える。


 納品先を間違える。


 材料の発注が重複する。


 現場では怒号が飛び交った。


「こんなの仕事にならねえ!」


「誰が管理してるんだ!」


「社長は何やってる!」


 職人たちの不満は限界に達していた。


 昼休み。


 食堂では誰も笑っていない。


 冷やし中華を食べながら愚痴をこぼす者。


 弁当を広げながらため息をつく者。


 皆の顔が暗い。


「高瀬さんがいた頃は良かったな」


 誰かが呟いた。


「ほんとだよ」


「仕事しやすかった」


「全部整理されてたもんな」


 拓海は偶然その会話を聞いてしまった。


 胸の奥がざらつく。


 だが認めたくなかった。


 その夜。


 退職届が提出された。


 ベテラン職人だった。


「辞めるのか?」


「すみません」


 職人は頭を下げた。


「生活がありますから」


「待ってくれ」


「他社から声が掛かっています」


 拓海は言葉を失う。


 翌週。


 さらに二人辞めた。


 また一人。


 また一人。


 まるで沈む船から逃げるように。


 職人たちは去っていく。


 工場の空気は日に日に冷たくなった。


 一方その頃。


 栞は会計事務所で忙しく働いていた。


 白いブラウスにネイビーのスーツ。


 冷房の効いたオフィス。


 窓の向こうには青空が広がっている。


「高瀬さん」


 同僚が声を掛けた。


「ランチ行きません?」


「行きます」


 近くの定食屋で焼き魚定食を食べる。


 炊きたてのご飯。


 味噌汁。


 香ばしい鯖。


 穏やかな昼休みだった。


 誰も怒鳴らない。


 誰も利用しない。


 そんな当たり前の環境が少し嬉しかった。


 帰り道。


 スマートフォンが震えた。


 拓海からだった。


 二十件目の着信。


 栞は画面を見つめる。


 そして静かに消した。


 もう答える必要はない。


 契約は契約だ。


 恋とは別の話である。


 夜風が吹き抜ける。


 その頃、相沢製作所では誰も帰れず残業していた。


 受注情報は消えたまま。


 請求書は未発行。


 職人は辞めていく。


 そして机の上には、八百万円を超える請求書。


 拓海は暗い社長室で頭を抱えた。


 初めて理解し始めていた。


 自分が追い出したのは、ただの幼馴染ではなかったのだと。



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