第4話 泥棒猫の正体
第4話 泥棒猫の正体
不安というものは、最初は小さな染みのように広がる。
見ないふりをしようと思えばできる。
まだ大丈夫だ。
そのうち何とかなる。
そう自分に言い聞かせることもできる。
だが、その染みは確実に広がり続ける。
相沢製作所の社長室で、拓海は机の上に積まれた書類を見ながら深いため息をついた。
六月の終わり。
窓の外では蝉が鳴き始めている。
工場の機械音は今日も響いているが、以前のような活気は感じられなかった。
社員たちは口数が減り、事務所の空気はどこか重い。
栞が辞めてから二か月近くが経っていた。
最初は平気だと思っていた。
だが今は違う。
何かがおかしい。
そう感じる場面が日に日に増えていた。
「社長ぁ」
甘えるような声が聞こえた。
美香だった。
淡いピンク色のブラウスに白いスカート。
高そうなブランドバッグを肩に掛けている。
以前より明らかに身なりが豪華になっていた。
「今日のランチどうします?」
「ん?」
「駅前に新しくできたフレンチのお店あるんですよ」
「へえ」
「一人六千円らしいです」
「高くないか?」
そう言いながらも拓海は笑った。
「まあいいか」
「やった!」
美香は嬉しそうに手を叩いた。
その笑顔を見ると悪い気はしない。
むしろ癒やされる。
栞はいつも真面目な話ばかりだった。
資金繰り。
銀行対応。
原価計算。
そんな話ばかりだった。
だが美香は違う。
一緒にいると楽しい。
だから拓海は多少の失敗には目をつぶっていた。
その日の昼。
二人は高級フレンチレストランを訪れていた。
白いテーブルクロス。
磨き上げられたグラス。
香ばしいパンの香り。
前菜のサーモンマリネ。
冷製スープ。
牛フィレ肉のステーキ。
美香は上機嫌だった。
「社長って本当に優しいですよね」
「そうか?」
「栞さんだったら絶対こういうお店来なそう」
拓海は苦笑した。
「確かにな」
栞は無駄遣いを嫌った。
利益率ばかり気にしていた。
その時だった。
スマートフォンが鳴った。
会社からだった。
拓海は露骨に嫌そうな顔をする。
「もしもし」
「社長!」
工場長の佐々木だった。
声が怒っている。
「今すぐ戻ってください!」
「何だよ」
「会社のカードです!」
「カード?」
「確認したいことがあります!」
電話が切れた。
嫌な予感がした。
会社へ戻ると、事務所には異様な空気が漂っていた。
佐々木が腕組みをしている。
経理担当の女性社員も困った顔をしていた。
「どうした?」
佐々木は無言で紙を差し出した。
カード利用明細だった。
拓海は目を通す。
そして眉をひそめた。
「何これ」
「それを聞きたいのはこちらです」
佐々木の声は冷たい。
利用履歴には見覚えのない店名が並んでいた。
高級ブランド店。
エステサロン。
高級ホテル。
ネイルサロン。
美容クリニック。
「社長、これ全部経費ですか?」
「いや……」
拓海は言葉に詰まる。
「美香?」
振り返る。
美香は一瞬だけ顔を強張らせた。
だがすぐに笑顔を作った。
「あっ、それ私です」
「お前?」
「会社のイメージアップに必要かなって」
佐々木のこめかみに青筋が浮かぶ。
「ブランドバッグがですか」
「だって営業は見た目も大事ですし」
「海外旅行も?」
「視察です」
「ハワイが?」
美香は黙った。
拓海は慌てて口を挟む。
「まあまあ」
「社長!」
佐々木は怒鳴った。
「これだけで百万円近く使われています!」
事務所が静まり返る。
誰も口を開かない。
だが社員たちの視線は冷たかった。
拓海は居心地の悪さを感じた。
それでも美香を庇う。
「次から気をつければいいだろ」
「そういう問題じゃありません」
佐々木は深く息を吐いた。
その顔には失望が浮かんでいた。
さらに悪い知らせは続いた。
翌週。
銀行との面談だった。
栞がいつも準備していた融資更新の話し合いである。
会議室には冷房が効いていた。
銀行員は穏やかな笑顔を浮かべていたが、目だけは笑っていなかった。
「相沢社長」
「はい」
「今回の融資についてですが」
銀行員は資料を閉じた。
「見送らせていただきます」
拓海は固まった。
「え?」
「現状では難しいと判断いたしました」
「どうしてですか!」
「請求漏れが多数あります」
「……」
「資金繰り表も不完全です」
「……」
「さらに売掛金管理にも問題が見られます」
拓海は言葉を失った。
栞がいた頃には一度も言われなかったことだ。
「以前担当されていた高瀬様は?」
「辞めました」
「そうですか」
銀行員は残念そうに頷いた。
「あの方は非常に優秀でしたので」
その言葉が胸に刺さる。
会社へ戻る途中、拓海は無言だった。
夕暮れの街がオレンジ色に染まっている。
だが何も美しく見えなかった。
工場へ戻ると、また問題が起きていた。
取引先から電話だ。
「顧客情報が流出している可能性があります」
「は?」
「他社から営業電話が来ています」
拓海の背筋が冷たくなる。
「どういう意味ですか」
「こちらが聞きたいです」
電話は一方的に切られた。
その夜。
美香は誰もいない事務所でパソコンを開いていた。
画面には顧客名簿。
取引先情報。
担当者一覧。
全てが保存されている。
「これ、結構高く売れそう」
彼女は小さく笑った。
その笑顔を見た者はいない。
一方その頃。
栞は仕事帰りにスーパーへ寄っていた。
白いブラウスに紺のスカート。
カゴの中には鮭、豆腐、ほうれん草、トマト。
特売のとうもろこしも入っている。
帰宅後は鮭を焼き、味噌汁を作り、炊きたてのご飯をよそう。
湯気が立ち上る。
食卓は質素だった。
だが心は穏やかだった。
窓の外では夜風が吹いている。
以前ならこの時間も会社のために働いていた。
だが今は違う。
自分の人生を生きている。
その頃、相沢製作所ではさらに大きな亀裂が広がり始めていた。
だが拓海はまだ知らない。
自分が守ろうとしている美香こそが、会社を内側から食い潰していることを。
そしてその代償が、もうすぐ取り返しのつかない形で現れることを。




