第3話 消えた請求書
第3話 消えた請求書
何かがおかしい。
そんな違和感を覚え始めたのは、栞が会社を辞めてから三週間ほど経った頃だった。
相沢製作所の朝はいつも騒がしい。
大型工作機械が動く低い振動音。
鉄を削る金属音。
油の匂い。
工場特有の熱気。
だが最近は、その空気の中に別のものが混じっていた。
苛立ちだ。
焦りだ。
そして不安だった。
工場長の佐々木は朝から眉間に深い皺を刻んでいた。
「社長、ちょっといいですか」
社長室のドアを開ける。
拓海はソファにふんぞり返りながらスマートフォンを眺めていた。
机の上にはコンビニのカフェラテ。
高級洋菓子店のプリン。
そして美香が差し入れたらしい焼き菓子が並んでいる。
「何ですか?」
「請求書です」
「ああ」
「出ていません」
「何が?」
「請求書がです」
拓海は数秒考えた。
「……どこの?」
「どこのじゃありません」
佐々木は頭を抱えた。
「十七社です」
「は?」
「先月分の請求書が未発行です」
拓海は顔をしかめる。
「美香」
「はい?」
「請求書どうなってる?」
美香は困った顔をした。
「えっと……」
「まさか出してないの?」
「システムが使えなくて」
「だから?」
「やり方が分からなくて……」
佐々木は思わず天井を仰いだ。
請求書が出ていない。
つまり売上が回収できない。
現金が入らない。
中小企業にとって致命傷だ。
「社長、来月の資金繰りに影響が出ます」
「大げさだな」
「大げさではありません」
佐々木の声は低かった。
「本当にまずいです」
しかし拓海は鼻で笑った。
「たかが請求書だろ」
その言葉を聞いた瞬間、佐々木は頭痛を覚えた。
栞なら絶対に言わせなかった言葉だ。
たかが請求書。
その一枚がどれだけ大事か。
栞は何度も説明していた。
だが拓海は聞いていなかった。
その日の昼。
さらに問題が起きた。
工場の休憩室。
社員たちがざわついている。
「給料少なくない?」
「俺も思った」
「残業代入ってないぞ」
「俺もだ」
次々と不満の声が上がる。
職人たちの顔には怒りが浮かんでいた。
月末は繁忙期だった。
毎日夜遅くまで働いた。
休日出勤もした。
それなのに残業代が消えている。
佐々木は慌てて美香を呼んだ。
「給与計算どうした?」
「え?」
「残業代です!」
「ちゃんと入力しましたよ?」
「入ってません!」
美香は青ざめる。
「そんな……」
「そんなじゃありません!」
現場監督が怒鳴った。
「社員の生活がかかってるんだぞ!」
その日の午後。
社長室の電話が鳴り続けた。
取引先からだった。
「相沢製作所さんですか?」
「はい」
「先月分の請求書がまだ届いていないのですが」
「確認します」
電話を切る。
また鳴る。
「高瀬さんはいらっしゃいますか?」
拓海は眉をひそめた。
「高瀬は辞めました」
「え?」
相手の声が変わる。
「高瀬さん辞めたんですか?」
「そうですけど」
「そうですか……」
明らかに空気が変わった。
それが気に入らない。
「何か問題あります?」
「いえ」
だが相手の声は不安そうだった。
「高瀬さんにはいつも助けてもらっていたので」
電話が切れる。
そしてまた別の電話。
「高瀬さんお願いします」
「辞めました」
「えっ?」
また別の電話。
「高瀬さんはいらっしゃいますか?」
「だから辞めたって!」
拓海は苛立って受話器を置いた。
何なんだ。
どうしてみんな栞ばかり探す。
ただの事務員じゃないか。
そう思った。
だが夕方になる頃には、その考えに小さなひびが入っていた。
銀行から電話が入ったのだ。
「資金繰り表を提出いただけますか」
「資金繰り表?」
「はい」
拓海は沈黙した。
どこにあるのか分からない。
いつも栞が作っていたからだ。
「後日送ります」
「早めにお願いします」
電話が切れる。
拓海は初めて舌打ちした。
「くそっ」
机を叩く。
その音に美香がびくりと震えた。
「社長?」
「何でこんなことになるんだ」
「私、頑張ってるのに……」
美香は涙目になる。
だが拓海は慰める余裕がなかった。
机の上には未処理の書類。
督促状。
確認依頼。
問い合わせ。
どんどん積み上がっていく。
その夜。
栞は別の場所にいた。
都心の高層ビル。
大手会計事務所。
復職初日を終えたところだった。
「高瀬さん、お帰りなさい」
後輩が笑顔で迎える。
「ありがとうございます」
久しぶりの職場だった。
白いブラウスにグレーのスーツ。
窓の外には夕焼けに染まる街並みが広がっている。
仕事は忙しい。
けれど誰も栞を軽んじない。
誰も無償で働くことを当然だと思わない。
それが少しだけ嬉しかった。
帰宅すると、小さなキッチンで夕食を作る。
鮭の塩焼き。
ほうれん草のおひたし。
豆腐とわかめの味噌汁。
炊きたてのご飯。
湯気と共に優しい香りが広がった。
一人の食卓は静かだった。
だが以前より穏やかだった。
スマートフォンが鳴る。
知らない番号。
けれど見覚えがあった。
拓海だった。
栞はしばらく画面を見つめた。
そして静かに電源を切る。
もう恋人でもない。
婚約者でもない。
会社の従業員でもない。
今の自分に応じる義務はなかった。
窓の外では夜風が木々を揺らしている。
一方その頃。
相沢製作所では深夜になっても電気が消えなかった。
机の上には山積みの書類。
未回収の売掛金。
未発行の請求書。
怒る社員。
不満を募らせる取引先。
そして誰もが口にする同じ名前。
「高瀬さんは?」
拓海は暗い社長室で一人呟く。
「たかが事務だろ……」
だがその声には、もう以前のような自信は残っていなかった。




