第2話 私の価値はゼロだったそうです
第2話 私の価値はゼロだったそうです
悔しいはずなのに、不思議と涙は出なかった。
あの日から三日が経っていた。
栞は自宅マンションの窓辺に立ち、灰色の空を見上げていた。六月の朝はどこか湿っぽく、細かな雨が窓ガラスを静かに叩いている。
部屋の中にはコーヒーの香りが漂っていた。
けれど、淹れたばかりのコーヒーはほとんど手つかずだ。
食卓にはトーストとスクランブルエッグ、それに小さなサラダが並んでいる。
いつもならきちんと食べる。
だが今日は喉を通らなかった。
十年。
その数字が何度も頭の中を巡っていた。
十年も好きだった。
十年も信じていた。
十年も支えていた。
それなのに拓海にとっては「ただの幼馴染」。
しかも社員全員の前で笑い者にされた。
思い出せば思い出すほど胸が重くなる。
「……情けないな」
栞は小さく呟いた。
恋人ですらなかった。
婚約者ですらなかった。
自分だけが勝手に信じていたのだ。
その事実が何より痛かった。
その時、スマートフォンが鳴った。
画面には「黒川法律事務所」の文字が表示されている。
栞は深呼吸して通話ボタンを押した。
「おはようございます、黒川です」
「おはようございます」
「資料は全て確認しました」
落ち着いた男性の声だった。
「正直申し上げますと、かなり驚きました」
「そうですか」
「はい。高瀬さんは相沢製作所にここまで貢献していたのですね」
栞は苦笑した。
「好きだったので」
電話の向こうで一瞬だけ沈黙が流れる。
黒川も事情を察したのだろう。
「まず貸付金ですが、五百万円については問題なく請求できます」
「はい」
「振込記録もありますし、借用書も残っています」
「それは良かったです」
「それからシステムについてですが……」
黒川の声が少し低くなる。
「これはかなり大きいですね」
栞は机の上に置かれたノートパソコンへ視線を向けた。
画面には管理システムの設計図が映っている。
十年前。
会社が倒産寸前だった頃に作ったものだ。
受注管理。
在庫管理。
請求書発行。
給与計算。
工程管理。
全てを一つにまとめた独自システム。
夜中までパソコンと向き合いながら少しずつ作り上げた。
拓海は一度も開発を手伝わなかった。
「こんなの誰でも作れるだろ」
そう言われたことを思い出す。
だが実際には誰でも作れない。
だから十年間使われ続けてきたのだ。
「著作権は高瀬さん個人にあります」
黒川が言った。
「利用契約書もありますので、ライセンス停止は可能です」
「そうですか」
「ただし向こうは反発するでしょう」
栞は窓の外を見る。
雨は少し強くなっていた。
「構いません」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「私の価値はゼロらしいので」
黒川は苦笑した。
「そのゼロの価値で会社が回っていたと、すぐに分かると思いますよ」
電話を切った後、栞はしばらく動かなかった。
胸が痛い。
それでももう戻るつもりはなかった。
恋は終わったのだ。
ならば残るのは契約だけだった。
その日の午後。
黒川法律事務所で正式な手続きが始まった。
未返済貸付金五百万円。
システム利用停止通知。
ライセンス料請求。
未払い業務委託料。
全ての書類が整えられていく。
黒川は最後に封筒を閉じながら言った。
「後悔していませんか?」
栞は少し考えた。
そして首を横に振る。
「いいえ」
嘘だった。
本当は後悔している。
もっと早く離れれば良かった。
もっと自分を大切にすれば良かった。
その後悔なら山ほどあった。
一方その頃。
相沢製作所では笑い声が響いていた。
「栞から請求書?」
拓海は封筒を机に放り投げた。
「何これ」
美香が覗き込む。
「五百万?」
「ははは!」
拓海は大声で笑った。
「冗談だろ」
「払うんですか?」
「払うわけないだろ」
拓海は鼻で笑った。
「どうせ嫌がらせだよ」
美香も笑う。
「そうですよね」
「第一、栞にそんな度胸あるわけない」
社長室には高級ブランドの紙袋が並んでいた。
美香が経費で買ったバッグだ。
拓海はそれを見ても何も思わない。
むしろ喜んでいた。
「そのうち泣きながら謝ってくるさ」
拓海は自信満々だった。
「俺がいないと生きていけないからな」
その言葉を聞いた美香は笑った。
「社長ってモテますもんね」
「だろ?」
二人は楽しそうに笑い合う。
だがその時だった。
社長室のパソコン画面に通知が表示される。
【ライセンス契約終了のお知らせ】
「ん?」
拓海が眉をひそめる。
画面が一瞬暗転する。
そしてログイン画面が表示された。
アクセス権限なし。
その文字が赤く光っている。
「何だこれ?」
「壊れたんですか?」
「知らねえよ」
拓海は適当にボタンを押した。
しかし何も動かない。
「まあいいか」
彼は肩をすくめた。
「栞の作ったシステムなんて、そのうち直るだろ」
その楽観が、後に自分の首を絞めることになるとは知らずに。
雨はまだ降り続いていた。
だが栞の心には少しだけ違う風が吹いていた。
失恋の痛みは消えない。
十年分の傷は深い。
それでも前へ進むしかない。
もう二度と、自分を安売りしないために。
栞は帰宅すると温かなミネストローネを作った。
トマトの香りが部屋に広がる。
一口飲む。
少しだけ体が温まった。
そして静かに呟く。
「さようなら、拓海」
「さようなら、私の幼馴染」
それは十年間の恋への別れの言葉だった。




