第1話 婚約者の席は空いていません
第1話 婚約者の席は空いていません
胸の奥がじんわりと温かかった。
こんな気持ちになるのは久しぶりだった。
ホテルの大宴会場の窓には夜景が広がり、無数の灯りが宝石のように瞬いている。天井のシャンデリアは眩しいほどの光を放ち、会場には焼きたてのローストビーフの香りや、バターの効いた料理の香りが漂っていた。
創業五十周年記念パーティー。
相沢製作所にとって大切な節目の日だ。
そして栞にとっても、特別な日だった。
淡いベージュのワンピースに紺色のジャケットを羽織り、髪を控えめにまとめている。華やかな美人ではない。鏡を見るたびにそう思う。
けれど今日は少しだけ嬉しかった。
十年間。
ずっと拓海を支えてきた。
学生時代から経理を手伝い、資金繰りを考え、銀行との交渉資料を作り、徹夜で決算書をまとめたこともある。
誰にも言わなかった。
言う必要がないと思っていた。
いつか結婚する相手なのだから。
そう信じていたから。
会場の向こうで拓海が笑っている。
黒いスーツを着た彼は、若手社長として注目を集めていた。
子供の頃から変わらない笑顔。
その笑顔を見るだけで、苦労なんて報われる気がしていた。
「栞さん、お疲れ様です」
声を掛けてきたのは工場長だった。
「本当にここまで会社を支えてくださってありがとうございます」
「そんな、大したことはしていませんから」
「またまた」
工場長は笑った。
「うちの社員はみんな知ってますよ。栞さんがいなかったら、とっくに会社は潰れていたって」
栞は困ったように微笑んだ。
そういう言葉は苦手だった。
感謝されたいわけではない。
ただ拓海の隣にいたかっただけだ。
その時だった。
突然、会場中央に立った拓海がマイクを握った。
「みんな、今日は来てくれてありがとう!」
拍手が起こる。
栞も手を叩いた。
拓海は機嫌よさそうに笑っている。
「五十周年を迎えられたのは、社員のみんなのおかげだ!」
再び拍手。
「そして今日はもう一つ発表がある!」
会場がざわめく。
栞の胸が小さく跳ねた。
まさか。
そんな期待は何度も裏切られてきた。
それでも心のどこかで願ってしまう。
もしかしたら、と。
拓海は誰かの肩を抱き寄せた。
若い女性だった。
白いドレスを着た美香が、恥ずかしそうに笑っている。
栞の心臓が嫌な音を立てた。
「紹介するよ!」
拓海は誇らしげに言った。
「俺の恋人の美香だ!」
一瞬、会場の音が遠くなった。
拍手が聞こえる。
誰かの歓声も聞こえる。
けれど栞には何も届かなかった。
耳鳴りだけが響いている。
拓海は続ける。
「それでな」
楽しそうに笑った。
「俺たち結婚することになった」
頭が真っ白になった。
息が苦しい。
足元が揺れているような気がする。
だが倒れるわけにはいかなかった。
社員たちの視線が集まっている。
美香は勝ち誇ったように栞を見た。
その視線だけで十分だった。
全部知っていたのだ。
自分がどんな立場だったのか。
どんな風に見られていたのか。
ようやく理解した。
「社長、それ本当ですか?」
社員の一人が尋ねた。
「もちろん!」
拓海は笑う。
「美香みたいな明るい子が奥さんの方がいいだろ?」
周囲から愛想笑いが漏れた。
その時、誰かが気を利かせたのだろう。
「じゃあ栞さんは?」
静寂が落ちた。
栞は逃げたかった。
だが身体が動かない。
拓海は肩をすくめた。
「栞?」
そして笑った。
「ただの幼馴染だよ」
胸の奥で何かが壊れた。
「でも長年会社を支えて――」
「いやいや」
拓海は遮った。
「正直言うとな」
酒が入っているのか、声が大きい。
「地味なんだよ」
会場が凍りつく。
誰も笑わない。
だが拓海は気づかない。
「栞といると会社まで地味になる」
美香がくすくす笑った。
「経理とか事務とか、そんなの誰でもできるだろ?」
栞は唇を噛んだ。
血の味がした。
「これからは美香がやる」
拓海は言った。
「若くて可愛いし、その方が会社のイメージもいい」
社員たちの顔が青ざめている。
工場長などは怒りで拳を握っていた。
だが誰も何も言えない。
社長だからだ。
栞は静かに目を閉じた。
十年間の記憶が浮かぶ。
高校時代。
一緒に帰った夕暮れ。
大学時代。
将来の夢を語り合った夜。
会社が倒産しかけた時。
二人で朝まで資金繰り表を作ったこと。
全部。
全部。
自分だけが大切にしていたのだ。
ゆっくり目を開く。
不思議だった。
涙は出なかった。
代わりに、氷のような静けさが胸の中に広がっていた。
「そう」
栞は小さく呟いた。
そして拓海を見た。
「分かったわ」
「やっと理解したか」
拓海は笑う。
「じゃあ明日から来なくていいぞ」
「ええ」
栞も微笑んだ。
「もう来ない」
その笑顔に、なぜか拓海は一瞬だけ戸惑った。
だがすぐに気にも留めなくなる。
美香と楽しそうに話し始めた。
栞は静かに会場を後にする。
ホテルの外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
遠くで車の走る音がする。
夜空には星が滲んでいた。
ようやく一粒だけ涙がこぼれる。
「終わったんだ……」
十年の恋だった。
十年の夢だった。
けれど同時に、十年の搾取でもあった。
栞は涙を拭く。
そして小さく息を吐いた。
「さて」
声は驚くほど冷静だった。
「まずは弁護士さんに連絡しようかな」
夜風が静かに吹き抜ける。
その瞬間、栞自身もまだ気づいていなかった。
今夜の決断が、三か月後に相沢製作所を崩壊へ導く最初の一歩になることを。




