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『裏高野山 ―観測者たちの殺人―』  作者: 智利


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第四話「記録者」

 名前は、残っていた。


 それだけが、不自然だった。



 大阪府警のデータベース。


 失踪届。


 記載あり。


 だが――


 写真がない。


 指紋も、生活記録も、交友関係も。



「……こんなこと、あり得る?」


 若い刑事が呟く。



「あり得るんや」


 後ろから声。



 振り返ると、一人の女が立っていた。



 落ち着いた目。


 静かな声。



「ただし、“普通のやり方では”説明できないだけ」



「……あなた、誰ですか」



「記録する者」



 女はそう言って、ファイルを机に置いた。



 分厚いノート。


 手書き。



「この人、消えたでしょ」



 ページを開く。



 そこには――



 “彼女自身”の記録があった。



「……え?」



 刑事が固まる。



「これ……あなたじゃないですか」



「そう」



 あっさりと頷く。



「私は一度、消えた」



 沈黙。



「でも、“書いた”から残った」




 一方その頃。



 浮浪雲晴明は、“境界”にいた。



 現実と、空白のあいだ。



 音はない。


 重さもない。



「……落ち着くな、ここ」



 小さく笑う。



 すべてが軽い。



 人間でいる必要が、ない。



 そのとき。



 “声”がした。



「満ちる」



「またお前か」



 浮浪雲は振り向かない。



「これ、どこまで行くんや」



 返答はない。



 ただ、理解が流れ込む。



 “社会が決める”。


 “不要なものは消える”。



「合理的やな」



 納得する。



 その瞬間。



 視界に、“文字”が浮かんだ。



 手書きの文字。



「……なんやこれ」




 ――『浮浪雲晴明。京都在住。酒好き。筋トレ好き。記憶力異常。』




 眉が動く。



「……誰や、書いたん」




 ――『現在、“空”と同化進行中』




 その瞬間。



 空間が、わずかに揺れた。



「……干渉してきよるな」




 一方、現実。



 女――“記録者”は、ノートを書き続けていた。



 場所は、黒門市場近くの喫茶店。



 周囲の客は、彼女を認識していない。



 だが、彼女は“存在している”。



「……ここまで来ると、逆に笑えるな」



 小さく呟く。



「社会に消されて、記録で生きる、か」




 ペンを走らせる。



 ――『対象:浮浪雲晴明』



 ――『観測開始』




 その瞬間。



 彼女の前の空間が、歪んだ。




「来ると思った」




 “空白”が開く。




 そこから、浮浪雲が現れた。




「……お前か」




 二人の目が合う。




「消えたんやなかったんか」




「消えたよ」



 あっさり答える。




「でも、“書いたから残った”」




 浮浪雲は、少しだけ笑う。




「ズルいな」




「そっちは?」




「こっちは“選ぶ側”や」




 沈黙。




「……戻る気、ある?」




 静かな問い。




「ないな」




 即答。




「今の方が、楽や」




 女は、ペンを止める。




「じゃあ――止める」




 その言葉に、空気が変わる。




「できると思うか?」




「やってみる価値はある」




 ノートを閉じる。




「あなたは“消す側”」




「私は“残す側”」




 一歩、前へ。




「ちょうどいい」




 浮浪雲の目が、細くなる。




「面白いな」




「久しぶりに、“対話”できそうや」




 その瞬間。




 周囲の客が、一人。




 “消えた”。




 誰も気づかない。




 ただ、空席だけが残る。




 女は、それを書く。




 ――『一名、消失』




 浮浪雲は、それを見る。




「……止める言うたやろ」




「止めるよ」




 顔を上げる。




「“あなたを”」




 沈黙。




 次の瞬間。




 喫茶店の空間が、ゆっくりと歪み始めた。




 “消す力”と、“残す力”。




 二つが、正面からぶつかる。




 そして。




 どちらが勝つかは、まだ誰にもわからない。

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