第五話「閾値」
人は、どこから消えるのか。
浮浪雲晴明は、それを確かめたくなった。
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夜の大阪。
ネオンの下で、世界は相変わらず騒がしい。
だが彼には――
“選別の輪郭”が見えていた。
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「……全員やない」
小さく呟く。
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すれ違う人々。
その中に、わずかに“薄い”者がいる。
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「条件がある」
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立ち止まる。
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視線の先――
一人の男。
四十代。
コンビニ袋を提げ、スマホを見ながら歩いている。
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だが。
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「……おらんも同然やな」
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誰とも目が合わない。
誰の記憶にも残らない歩き方。
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浮浪雲は、近づく。
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「なぁ」
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声をかける。
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男は顔を上げる。
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「……はい?」
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目は合っている。
だが、焦点が浅い。
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「最近、誰かとちゃんと話したか」
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「え……?」
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戸惑う。
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「仕事以外でや」
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「……いや、別に……」
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言葉が、軽い。
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「家族は」
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「いません」
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「友達」
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「……いないです」
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沈黙。
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浮浪雲は、ゆっくり頷く。
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「条件、揃っとるな」
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「え……?」
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男は意味がわからない。
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当然だ。
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浮浪雲は、一歩踏み出す。
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そして――
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“軽く触れた”。
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何も起きない。
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「……そう簡単やないか」
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小さく呟く。
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そのとき。
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「やめて」
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声。
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振り向く。
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あの女――記録者が立っていた。
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「やっぱり来るか」
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「当たり前でしょ」
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息を少し切らしている。
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「それ、実験?」
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「せや」
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隠さない。
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「人が消える条件を調べとる」
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女の目が、強くなる。
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「人で試すな」
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「人やからや」
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一歩、近づく。
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「これ、“社会の機能”やで」
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「だから何」
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「理解せな止められん」
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女は、ノートを取り出す。
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――『対象:中年男性。社会的孤立。反応鈍。』
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「……記録しても意味ない」
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「ある」
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はっきり言う。
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「書いてる間は、“消えない”」
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浮浪雲の目が、わずかに動く。
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「……ほんまか」
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「試す?」
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挑発。
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数秒の沈黙。
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「ええで」
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浮浪雲は、男の肩に再び触れる。
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今度は――
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“意識して”。
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空を流す。
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世界が、少し静かになる。
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男の輪郭が――
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“揺れた”。
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「……っ」
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女が、即座に書く。
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――『存在確認。名前不明。男性。現在ここにいる』
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ペンの音が、やけに大きく響く。
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男の輪郭が、戻る。
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完全には消えない。
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「……なるほどな」
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浮浪雲は、小さく笑う。
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「観測されとる限り、完全には消えん」
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「だからやめて」
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「無理やな」
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あっさり言う。
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「面白すぎる」
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女の顔が歪む。
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「人が消えてるんだよ」
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「知っとる」
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「怖くないの?」
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その問いに。
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浮浪雲は、少し考える。
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「……最初はな」
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空を見る。
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「でもな」
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視線を戻す。
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「“意味がある”ってわかったら、怖さは減る」
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「それ、危ない思考だよ」
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「せやろな」
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笑う。
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「でも、正しい」
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その瞬間。
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男が――
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“完全に消えた”。
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静寂。
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女の手が止まる。
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「……え?」
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ノートを見る。
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さっき書いた記述が――
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“消えている”。
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「そんな……」
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浮浪雲も、わずかに目を細める。
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「……今のは」
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想定外。
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“記録が追いつかん速度”。
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女の呼吸が乱れる。
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「違う……これ、違う……」
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「加速しとるな」
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浮浪雲は、むしろ楽しそうだ。
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「条件が揃うと、一気に行く」
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女が叫ぶ。
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「やめてよ!!」
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その声が、夜に響く。
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だが。
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誰も振り向かない。
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“認識されていない”。
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女は、震える手で書く。
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――『私はここにいる』
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その文字だけは、消えない。
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浮浪雲は、それを見つめる。
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「……強いな、お前」
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「必死なだけ」
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「それでええ」
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ポケットから酒を出す。
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「どっちが先に折れるかや」
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一口飲む。
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「社会か、お前か」
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そして。
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「それとも――俺か」
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夜は、何も答えない。
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ただ、人の流れだけが続く。
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誰かが消えても、止まらない流れ。




