第三話「簿明の選択」
人は、“消える前に軽くなる”。
浮浪雲晴明は、それを知っている。
そして今――
自分が、そうなり始めていることも。
⸻
大阪の夜。
ネオンと雑踏の中で、世界はやけに“遠い”。
⸻
足音が、響かない。
⸻
「……やりすぎか」
ポケットの酒を一口。
味が、薄い。
⸻
視線の先――
昼間の女が、立っていた。
⸻
「……来てくれたんですね」
⸻
「仕事や」
短く答える。
⸻
だが、どこか“温度”が違う。
⸻
「弟の部屋、見てほしいんです」
⸻
「ええで」
⸻
二人は歩き出す。
⸻
マンションの階段を上る。
足音は、やはり響かない。
⸻
女が、ふと振り返る。
⸻
「……さっきから、変じゃないですか」
⸻
「何がや」
⸻
「気配が……」
⸻
言いかけて、止まる。
⸻
「……気のせいです」
⸻
浮浪雲は、何も言わない。
⸻
(気づき始めとるな)
⸻
部屋の前に立つ。
鍵を開ける。
⸻
中は、静かだった。
⸻
生活の跡はある。
だが――
⸻
「……薄い」
⸻
浮浪雲が呟く。
⸻
机の上の写真。
男の顔が、ぼやけている。
⸻
「これが、弟さんやな」
⸻
「はい……でも、こんな顔でしたっけ……」
⸻
女の声が震える。
⸻
「記憶が削れとる」
⸻
はっきり言う。
⸻
「このままやと、お前も忘れるで」
⸻
「そんな……」
⸻
女が一歩後ずさる。
⸻
その瞬間。
⸻
浮浪雲は――“見た”。
⸻
女の背後に。
⸻
“空白”。
⸻
壁の一部が、存在していない。
⸻
「……そこ、動くな」
⸻
低く言う。
⸻
「え……?」
⸻
「そこに、“穴”がある」
⸻
女が振り返る。
⸻
何もない。
⸻
だが。
⸻
次の瞬間。
⸻
女の右腕が、“消えた”。
⸻
「……え?」
⸻
本人は気づかない。
⸻
ただ、バランスを崩す。
⸻
浮浪雲は、迷わなかった。
⸻
一歩、踏み込む。
⸻
そして――
⸻
“穴”を見た。
⸻
そこは、黒ではない。
闇でもない。
⸻
“何もない”。
⸻
「……これが、外に出た“空”か」
⸻
静かに呟く。
⸻
そして。
⸻
手を、伸ばした。
⸻
「ちょっと……何して――」
⸻
女の声が、遠くなる。
⸻
浮浪雲の指先が、“穴”に触れる。
⸻
その瞬間。
⸻
“理解した”。
⸻
これは、破壊ではない。
⸻
“整理”だ。
⸻
社会が、不要と判断した存在を――
静かに削除する仕組み。
⸻
「……ようできとる」
⸻
口元が、わずかに緩む。
⸻
「無駄がない」
⸻
女が、叫ぶ。
⸻
「やめてください!!」
⸻
その声が、現実に引き戻す。
⸻
だが。
⸻
浮浪雲は、手を引かなかった。
⸻
「……助けてほしいか」
⸻
振り向かずに言う。
⸻
「当たり前です!!」
⸻
「なんでや」
⸻
その一言に、空気が凍る。
⸻
「……え?」
⸻
「なんで、“お前だけ”助けなあかん」
⸻
ゆっくり振り向く。
⸻
その目は――
明らかに変わっていた。
⸻
「世の中、消えとるやつ山ほどおる」
⸻
「誰も気にしてへん」
⸻
「それが“正しい流れ”や」
⸻
女の顔から血の気が引く。
⸻
「……あなた、何を」
⸻
「選別や」
⸻
あっさりと言う。
⸻
「残すもんと、消すもん」
⸻
一歩、近づく。
⸻
「俺は、それが“見える側”に来ただけや」
⸻
⸻
沈黙。
⸻
⸻
女の目に、涙が浮かぶ。
⸻
「……戻ってください」
⸻
小さな声。
⸻
「あなた、優しい人だったじゃないですか」
⸻
⸻
その言葉に。
⸻
ほんの一瞬だけ。
⸻
浮浪雲の動きが止まる。
⸻
⸻
(優しい……?)
⸻
⸻
記憶が、よぎる。
⸻
高野山。
あの言葉。
⸻
――「どうでもよかった」
⸻
⸻
「……ああ」
⸻
小さく、笑う。
⸻
⸻
「せやな」
⸻
⸻
そして。
⸻
⸻
「どうでもええわ」
⸻
⸻
手を、さらに奥へ差し込む。
⸻
⸻
女の体が、少しずつ“薄く”なる。
⸻
⸻
「いや……やめ……」
⸻
⸻
そのとき。
⸻
⸻
“声”が、響いた。
⸻
⸻
「満ちる」
⸻
⸻
低く、確かに。
⸻
⸻
浮浪雲の中から。
⸻
⸻
動きが、止まる。
⸻
⸻
目が、揺れる。
⸻
⸻
(……これは)
⸻
⸻
違う。
⸻
⸻
これは、“俺の意思やない”。
⸻
⸻
初めての違和感。
⸻
⸻
“空”が、自分を通して動いている。
⸻
⸻
「……おい」
⸻
小さく呟く。
⸻
⸻
「勝手に使うなや」
⸻
⸻
その瞬間。
⸻
⸻
部屋全体が、歪んだ。
⸻
⸻
“穴”が、広がる。
⸻
⸻
女も、壁も、空気も。
⸻
⸻
すべてが“薄くなる”。
⸻
⸻
「……やばいな、これ」
⸻
⸻
笑う。
⸻
だが、その笑いは。
⸻
どこか、壊れていた。
⸻
⸻
「どこまで消えるか、見てみたなるやん」
⸻
⸻
そして。
⸻
⸻
一歩、踏み出す。
⸻
⸻
“穴”の中へ。
⸻
⸻
現実から、外れるように。
⸻
⸻
女の叫びが、完全に消えた。
⸻
⸻
部屋は、元に戻る。
⸻
⸻
ただ一つ。
⸻
⸻
何もなかったかのように。
⸻
⸻
“二人分”の存在が、消えていた。
⸻




