第二話「見えない街」
大阪は、“覚えない街”だ。
浮浪雲晴明は、そう思った。
人が多すぎる。
情報が多すぎる。
そして――忘れるのが、速すぎる。
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昼の黒門市場。
観光客と地元客が入り混じり、声が飛び交う。
魚の匂い。
油の音。
笑い声。
すべてが、濃い。
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「……せやのに、軽い」
浮浪雲は、ぼそりと呟いた。
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指定された店に入る。
小さな定食屋。
古びているが、清潔だ。
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「浮浪雲さん、ですか」
奥から女が出てくる。
三十代後半。
落ち着いた目をしている。
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「依頼人やな」
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「はい。……弟が、消えました」
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座る。
茶が出る。
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「警察は?」
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「事件性なし、で終わりです」
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「まぁ、そうやろな」
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淡々と言う。
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「死体がない。証拠もない。
“記録も薄い”やろ」
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女の目が揺れた。
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「……なぜ、それを」
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「こういうのはな」
湯呑みを持ち上げる。
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「“消える前から薄い”んや」
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沈黙。
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「弟さん、最近どうやった」
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「……仕事を辞めてから、ずっと家に」
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「人と会ってたか?」
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「ほとんど……」
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浮浪雲は、小さく息を吐いた。
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「典型やな」
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「え?」
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「社会から“切れかけとる”人間や」
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女の顔が曇る。
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「きつい言い方やけどな」
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「……いえ、わかっています」
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その声は、静かだった。
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「でも、それと“消える”ことが関係あるんですか」
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浮浪雲は、少しだけ笑った。
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「めちゃくちゃある」
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前に身を乗り出す。
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「人間はな、“存在しとる”んやない」
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「“認識されとる”から、存在しとる」
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女は、言葉を失う。
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「家族、仕事、友人、社会」
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「全部が“鏡”や」
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「その鏡に映らんようになったら――」
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指を、軽く弾く。
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「消える」
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その瞬間。
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店の奥で、何かが落ちた。
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音。
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二人が振り向く。
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誰もいない。
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「……今の」
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「気づいたか」
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浮浪雲の目が細くなる。
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「一瞬、“店員がおった”」
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「え……?」
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「けど、今はおらん」
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女の呼吸が浅くなる。
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「……そんな」
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「これが“現象”や」
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静かに言う。
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「でもな――」
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ゆっくり立ち上がる。
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「原因は、呪いやない」
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外を見る。
人の波。
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「社会や」
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「……社会?」
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「せや」
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振り返る。
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「便利になりすぎた」
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「繋がっとるようで、繋がってへん」
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「代わりはいくらでもおる」
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「覚える必要がない」
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一つ一つ、言葉を置く。
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「せやから、“忘れても成立する世界”になった」
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沈黙。
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「その結果が――」
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店の奥を指す。
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「“存在の軽量化”や」
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そのとき。
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店の看板が、外で“揺れた”。
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風はない。
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だが。
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文字が、一瞬だけ。
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“読めなくなった”。
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「……来とるな」
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浮浪雲は、笑った。
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その笑みは、楽しそうで。
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少しだけ、危うかった。
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「これ、止めるんは無理やで」
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「え……?」
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「社会そのものやからな」
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外へ出る。
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「せやけど」
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歩きながら言う。
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「“観測者”がおる限り、完全には消えん」
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振り向く。
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「俺らみたいなのがな」
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その瞬間。
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女の輪郭が、一瞬だけ――
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“薄くなった”。
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「……あ」
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本人は気づいていない。
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だが、浮浪雲は見た。
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(もう始まっとる)
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空が、街に広がっている。
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誰も気づかないまま。
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静かに。
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確実に。
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「……面白いな」
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浮浪雲は、空を見上げた。
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「人間が作ったもんに、人間が消される」
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そして、小さく呟く。
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「救いようがないで、ほんま」
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