最終話「空を宿す者」
闇の中で、“それ”は確かに目を開いた。
光はない。
だが、見える。
見えてはいけないものが。
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「……まだ、足りぬ」
声は、音ではなかった。
頭の奥に、直接“置かれる”。
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浮浪雲晴明は、笑った。
「ええなぁ……やっと出てきたか」
恐怖は、なかった。
ただ、興味だけがあった。
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灯明が、一つだけ戻る。
ぼんやりとした光の中に、あの男――僧が立っていた。
そして、その背後に“影”。
片足の、あの存在。
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「見えるか」
僧が問う。
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「見えるで」
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「では、理解したな」
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「いや、半分や」
浮浪雲は首を鳴らす。
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「半分は、お前の“妄想”や」
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空気が張り詰める。
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「……妄想だと?」
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「せや」
ゆっくりと言う。
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「“呼んだ”のは事実や。
けどな――」
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一歩、踏み込む。
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「それを“弘法大師”やと思っとるんは、お前だけや」
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沈黙。
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僧の顔が、わずかに歪む。
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「……何を言っている」
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「簡単や」
浮浪雲は、影を指さす。
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「あれは“空”や」
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「名前も、人格も、最初からない」
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「せやから、入れ物次第で“何にでもなる”」
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その言葉に、闇がわずかに揺れた。
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「お前はそこに、“弘法大師”を見とる」
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「せやけど実際は――」
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静かに言い切る。
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「“お前自身”を見とるだけや」
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その瞬間。
鈴が、激しく鳴った。
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「違うッ!!」
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僧の叫び。
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「私は選ばれた!!
この山が、そう言っている!!」
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「山は何も言わん」
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冷たく、切り捨てる。
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「言うとるんは、“お前の中の欲”や」
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沈黙。
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影が、ゆっくりと動いた。
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僧の方へ――ではなく。
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浮浪雲の方へ。
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「……ほらな」
小さく笑う。
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「どっちが“器”か、あっちも迷っとる」
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僧の顔から血の気が引く。
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「来るな……」
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だが影は止まらない。
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片足で、静かに近づく。
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そして――
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浮浪雲の前で、止まった。
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沈黙。
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「……選びよるな」
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その瞬間。
声が、再び響いた。
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「満ちる」
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短い言葉。
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そして。
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影が、浮浪雲の中へ“落ちた”。
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音もなく。
境界もなく。
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僧が、絶叫する。
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「なぜだ!!
なぜ私ではない!!」
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浮浪雲は、ゆっくりと顔を上げた。
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その目は――
少しだけ、違っていた。
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「……簡単や」
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一歩、前へ。
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「お前は、“なりたがった”」
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そして。
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「俺は、“どうでもよかった”」
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沈黙。
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その言葉が、すべてだった。
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“空”は、執着を嫌う。
埋めようとする者ではなく、
空いたままの器を選ぶ。
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「……そんな、ことで……」
僧の膝が崩れる。
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「人生を捧げたのに……」
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「せやからや」
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浮浪雲は、静かに言う。
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「捧げた時点で、“埋まっとる”」
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その瞬間。
空気が、ほどけた。
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重圧が消える。
影も、消える。
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御影堂は、ただの“静かな場所”に戻った。
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僧は、その場に崩れ落ちたまま、動かない。
生きている。
だが――何かが、抜けていた。
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「……終わり、か」
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浮浪雲は小さく呟く。
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だが。
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違和感があった。
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胸の奥。
何かが、ある。
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静かに、確実に。
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“空”が、残っている。
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「……やれやれ」
苦笑する。
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「面倒なもん、背負ってもうたな」
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外に出ると、朝だった。
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高野山の空は、いつも通り静かだ。
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誰も知らない。
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この山で起きたことも。
何が“選ばれた”のかも。
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ただ一人を除いて。
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浮浪雲晴明は、ポケットから酒を取り出し、一口飲んだ。
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「……ま、ええか」
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空を見上げる。
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その目に、一瞬だけ。
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“何かが消えた”。
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いや。
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“見えなくなった”。
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終




