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『裏高野山 ―観測者たちの殺人―』  作者: 智利


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第四話「器の名」

 御影堂の空気は、“重い”では足りなかった。


 圧だ。


 見えない何かが、空間そのものを押し潰している。


 浮浪雲晴明は、その中心に立っていた。



 弘法大師の御影。


 その前の灯明が――揺れている。


 風は、ない。



「……動いた、言うたな」


 浮浪雲は、背後の僧侶に聞いた。


「は、はい……確かに……」


 声が震えている。



「どの方向にや」


「……こちらを、向いた気が……」



「気が、か」


 小さく笑う。


 だが、その目は笑っていない。



(“見え方”を操作されとる)



 第三話で掴んだ感覚が、ここで繋がる。


 存在は変わっていない。


 だが、“認識”だけが歪められている。



「……祝詞やな」


 誰にも聞こえない声で呟く。



 そのときだった。



「そこまでだ」



 低い声。


 振り返ると、一人の男が立っていた。



 僧侶――だが、どこか違う。


 衣の着方、立ち方、呼吸。


 すべてが“整いすぎている”。



「……あんたか」


 浮浪雲はため息をついた。


「裏で遊んどるんは」



 男は微笑む。



「遊びではない。継承だ」



「何をや」



「“空”を」



 その言葉に、空気がわずかに震えた。



「……やっぱり、アホやな」


 浮浪雲は笑う。


「人が、“空海の代わり”になれる思うとる」



 男は首を振る。



「違う」



 一歩、近づく。



「“なる”のではない。“作る”のだ」



 沈黙。



「器を整え、不要なものを削ぎ落とす」



 その目が、冷たく光る。



「一を捨て、片を残す」



 浮浪雲の中で、すべてが繋がった。



「……片足」



「そうだ」



「余分な“認識”を削る。

肉体も、記憶も、人格も」



 男は静かに言う。



「最後に残るのは、“空”に最も近い存在」



「それを、“大師の器”とする」



 静寂。



「……ほな、死んだ二人は」



「失敗作だ」



 あまりにもあっさりとした言葉。



「適合しなかった」



 浮浪雲の目が、わずかに細くなる。



「人を削って、“仏”にするつもりか」



「もともと人は、空だ」



 即答だった。



「ただ、余分なものが多すぎる」



 その瞬間。


 御影堂の空気が、さらに重くなる。



「……で?」


 浮浪雲は一歩踏み出す。


「次の器は、誰や」



 男は、微笑んだ。



「お前だ」



 沈黙。



 僧侶たちが息を呑む。



「虚空蔵求聞持法を修めた者」



「完全記憶」



「そして――」



 男の声が、わずかに低くなる。



「“安倍晴明の血”を引く可能性」



 浮浪雲は、静かに笑った。



「……可能性、な」



「十分だ」



 その瞬間。


 男が、手を上げた。



 チリン――



 鈴の音。



 空気が、歪む。



 御影堂の景色が、“ズレる”。



 僧侶たちの姿が、ぼやける。



 浮浪雲の視界も――揺れる。



(来たな)



 だが。


 彼は、目を閉じた。



「……効かんで」



 静かに言う。



「“見てるから”騙されるんや」



 ゆっくりと目を開く。



 その瞳は、揺れていない。



「見んかったらええだけや」



 男の表情が、初めて変わった。



「……何をした」



「簡単や」


 浮浪雲は笑う。



「“覚えたもん全部、消しただけや”」



 沈黙。



「認識を切る術は、こっちも知っとる」



 虚空蔵求聞持法。


 記憶するだけではない。



 “選んで忘れる”こともできる。



「……なるほど」


 男は小さく頷く。



「だから、お前なのだ」



 再び、鈴が鳴る。



 今度は――近い。



 気づいたときには。



 背後に、いた。



 “片足の影”。



 白い装束。


 顔のない存在。



「……器、完成間近やな」



 浮浪雲は、笑った。



「せやけど――」



 一歩、踏み込む。



「順番、間違えとるで」



「何?」



「器を作る前に」



 その目が、鋭く光る。



「“中身”が何か、決めとかなあかん」



 その瞬間。


 御影堂の灯明が、一斉に消えた。



 完全な闇。



 そして――



 誰かの声。



 それは、男のものでも、僧侶のものでもなかった。



 もっと古い。


 もっと深い。



「……まだ、足りぬ」



 浮浪雲の背筋に、初めて冷たいものが走る。



「……おいおい」



 小さく笑う。



「ほんまに“呼んどる”やんけ」



 闇の中で。


 何かが、目を開いた。

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