第三話「見えぬものを消す力」
夜の高野山は、昼よりも“近い”。
空が低いのか、闇が重いのか。
浮浪雲晴明には、そのどちらも正しく思えた。
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彼は一冊の本を開いていた。
祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび。
ページの内容は、すでに頭の中にある。
だが、あえて“読む”。
「……確認や」
低く呟く。
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――祝詞によって、存在を“消す”。
――敵機B29が、上空から消えた。
――現人神の霊力。
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「……消した、やなくて」
浮浪雲は酒を一口飲む。
「“見えんようにした”やろ」
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その瞬間。
昨夜の“影”が、脳裏に蘇る。
確かにそこにいた。
だが、次の瞬間には消えた。
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「同じやな」
彼は笑う。
「存在が消えたんやない。
“認識から外された”だけや」
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ノートを開く。
虚空蔵求聞持法。
そして、その中に紛れ込んだ“裏”。
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――一を捨て、片を残す
――代を立てよ
――視を断て
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「……視を断て、か」
指が止まる。
「見えんようにする術やな」
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そのとき。
コンコン、と。
障子が叩かれた。
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「……誰や」
返事はない。
だが、気配だけがある。
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浮浪雲はゆっくり立ち上がり、障子を開けた。
そこに立っていたのは――
昼間の老僧だった。
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「……話がある」
その声は、低く、疲れていた。
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部屋に入ると、老僧はすぐに言った。
「おぬし、気づいておるな」
「まあな」
浮浪雲は酒を注ぐ。
「“見えへんもん”が多すぎる」
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老僧は頷く。
「今回の儀は――未完成だ」
「やろな」
即答だった。
「完成してたら、こんな雑な死に方せえへん」
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老僧の目が鋭くなる。
「……雑、とは」
「選ばれとらん人間が死んどる」
浮浪雲は指を二本立てる。
「法印と、若い僧侶。共通点が薄すぎる」
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老僧は沈黙する。
そして、ゆっくりと口を開いた。
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「“器”が、いるのだ」
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「知っとる」
浮浪雲は笑う。
「ノートに書いてあった」
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「ならば話は早い」
老僧は身を乗り出す。
「この山で、“代わり”を立てようとしている者がいる」
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「……誰の代わりや」
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その問いに、老僧は答えなかった。
ただ、一言だけ。
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「“弘法大師”だ」
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空気が、止まった。
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「……アホか」
浮浪雲は即座に吐き捨てる。
「そんなもん、できるわけ――」
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言いかけて、止まる。
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(いや……)
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祝詞で“見えなくする”。
存在を“認識から消す”。
そして――
代を立てる。
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「……できるかもしれんな」
低く呟いた。
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老僧の目が、わずかに揺れる。
「信じるのか」
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「信じへん」
即答だった。
「せやけどな――」
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浮浪雲は、ゆっくり笑った。
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「“やろうとしてる奴がおる”なら、話は別や」
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その瞬間。
外で、大きな音がした。
ドン、と。
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二人は同時に立ち上がる。
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廊下に出ると――
僧侶たちがざわめいていた。
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「……どうした」
老僧が問う。
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ひとりの僧侶が、震えながら言う。
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「仏像が……」
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「動きました」
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沈黙。
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「……どこのや」
浮浪雲が聞く。
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返ってきた答えは――
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「御影堂です」
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つまり。
弘法大師が祀られている場所。
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浮浪雲は、静かに息を吐いた。
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「……ええやん」
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その目は、完全に“獲物を見つけた”目だった。
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「面白なってきたわ」




