第七話:観測者の選択
闇の中で、音がしていた。
それは心臓の音か、
それとも世界が軋む音か。
主人公――浮浪雲晴明は、膝をついていた。
呼吸が浅い。
視界は歪み、輪郭を失っている。
(現実は……幻想……?)
否定したはずの言葉が、
今は骨の中まで入り込んでくる。
⸻
「壊れかけているな」
あの男の声だ。
静かで、冷たい。
「当然だ。君は“前提”を失ったんだからな」
⸻
(前提……)
浮浪雲は、自分の手を見た。
震えている。
だが――消えてはいない。
⸻
「なあ」
掠れた声で言う。
「もし……全部が幻想なら……」
一度、息を飲む。
⸻
「俺は……何を信じればいい」
⸻
沈黙。
男は、すぐには答えなかった。
その代わり、ゆっくりと歩み寄る。
⸻
「いい質問だ」
そして、目の前に立つ。
⸻
「“何を信じるか”ではない」
⸻
浮浪雲の目が、わずかに動く。
⸻
「“何を選ぶか”だ」
⸻
その瞬間。
頭の奥で、何かが繋がった。
⸻
(選ぶ……?)
⸻
「現実は固定されていない」
男は淡々と続ける。
「観測によって決まる。
そして観測とは、意志だ」
⸻
浮浪雲の呼吸が、少しだけ戻る。
⸻
「つまり……俺が見るものが……」
「そうだ」
⸻
「君の現実になる」
⸻
世界が、静まった。
さっきまでの歪みが、すっと引いていく。
⸻
(だったら――)
⸻
浮浪雲は、ゆっくりと立ち上がった。
膝の震えは、まだ残っている。
だが目は、もう逃げていない。
⸻
「俺は……」
⸻
一歩、踏み出す。
⸻
「“殺された”って現実を選ぶ」
⸻
空気が変わった。
明らかに。
⸻
男の表情が、初めてわずかに歪む。
⸻
「ほう……」
⸻
「法印は死んだんじゃない」
浮浪雲の声は、静かだった。
だが確かに芯がある。
⸻
「殺された」
⸻
沈黙。
そして――
⸻
「理由は?」
⸻
浮浪雲は、即答した。
⸻
「誰かが“そうなる現実”を選んだからだ」
⸻
男の目が、細くなる。
⸻
「面白い」
⸻
その瞬間。
部屋の空気が、圧を持った。
まるで見えない何かが、押し寄せてくるような。
⸻
「ならば証明してみろ」
⸻
低く、響く声。
⸻
「その現実が“強い”ことを」
⸻
次の瞬間。
浮浪雲の視界が切り替わった。
⸻
読経の声。
線香の匂い。
冷たい畳。
⸻
――法印が倒れる瞬間。
⸻
(来たか……!)
⸻
これは“記憶”ではない。
⸻
“再観測”だ。
⸻
法印の唇が、わずかに動く。
読経の中に、ほんの一瞬だけ混じる“異音”。
⸻
(これは……違う……!)
⸻
言葉じゃない。
だが確かに“意味”を持っている。
⸻
呪だ。
⸻
その瞬間。
浮浪雲の脳が焼けるように熱くなる。
⸻
(やめろ……!)
⸻
情報が流れ込む。
膨大な、異常な情報。
⸻
だが――
⸻
(逃げるな……!)
⸻
歯を食いしばる。
⸻
(これは俺が“選んだ現実”だ)
⸻
視界が、固定される。
⸻
そして――
⸻
見えた。
⸻
法印の背後。
誰もいないはずの空間に、
⸻
“もう一人”いる。
⸻
それは人間だった。
だが――
⸻
普通の人間ではない。
⸻
その目が、こちらを見た。
⸻
(気づかれた……!)
⸻
次の瞬間。
視界が、強制的に引き戻される。
⸻
浮浪雲は、床に倒れ込んだ。
荒い呼吸。
全身が汗に濡れている。
⸻
男が、静かに見下ろしていた。
⸻
「どうだった?」
⸻
浮浪雲は、笑った。
かすかに、だが確かに。
⸻
「……見えたよ」
⸻
ゆっくりと顔を上げる。
⸻
「犯人は、“人間”だ」
⸻
沈黙。
⸻
そして、男が初めて――
はっきりと笑った。
⸻
「いいだろう」
⸻
その目には、明らかな“敵意”が宿っていた。
⸻
「ここからが本番だ」




