Ⅲ 第七章 第7話
チェリーナは休憩室を見回して一つ頷いた。ローズは首を傾げながら彼女の挙動を見守っている。
「なんだか、嫌な予感がする」
呟くローズを座らせて、チェリーナも対面に腰を下ろした。眼鏡のつるを押し上げる彼女の癖を眺めながら、ローズは足を組んだ。
「検査依頼が入ると、医師が足りない、そう言ってましたよね」
「はい……増やせるんですか」
「そうなんです。しかも、人間だけじゃなくて犬も診れます」
「え、それってもしかして」
「はい、サン・チー殿改め、サン・ユエ殿を医局の医師として受け入れてください」
笑顔で宣言されて、ローズは困惑も露わに腕も組んだ。
「サン・ユエさんって誰ですか。改めってなんですか」
「彼はチー家から除籍されて、本来の名であるユエとして再出発することになりました」
チェリーナの圧の籠った笑顔をローズは目を眇めて横目に見やる。
「ええ、なんかもう、色々面倒臭そうなんですけど……断れないんだったらしっかり事情を説明してください」
過去に何度か似たようなやり取りをしている。チェリーナは作り笑顔を消して神妙に頷いた。
「はい、失礼しました。せんせいを揶揄うのが楽しくて」
「……ユエさんに改名した、元チー家の人が、医局に入ると」
「はい。秋の議会でモールフィが麻酔薬として承認されることになりまして」
「え……さらっと恐ろしい情報を入れないでくださいよ!」
「失礼しました。今回のモールフィ使用を正当化するためには、麻酔薬としての効能と治験を議会に認めさせなくてはならなかったんです。隠蔽して漏れたら、特捜も医局もおしまいですから」
チェリーナの言い分に納得せざるを得ず、ローズは低く唸った。
「うう、ぐうの音も出ない理屈……それと、ユエさんが医局に入るのにどう繋がりがあるんですか」
「はい、これは政治的なやり取りの結果ですね。彼はモールフィの専門家だそうです。チー家はモールフィの安全運用のために、ユエ殿の身柄譲渡を提案してきました。彼には医局に入って貰います。彼の身柄譲渡、茶筒の底にあった宝石の所有権放棄、モールフィの優先供給を、ウェザビー・チー不問の見返りとする、外務局は正式にその密約を承諾しました」
チェリーナの眼鏡が鈍く光る。
「不問にしないとダメなんですか」
「はい……モールフィ使用に関しては、隠蔽して漏れたら我々の首が飛ぶ程度で済みますが、彼女の罪が露見したら国家間の戦争になりかねませんからね」
ローズががっくり肩を落とした。
「やっぱり、ミシェルを使ってモールフィを流通させたのも、ウェザビー・チーなんですか」
「そうでしょうね……アルセリア法で裁けないのは業腹ですが、どちらにしろ、彼女に明るい未来はない。そこを落としどころとして諦めるしかありません」
「はあ……私ってただの医師なのに。もう話が大きくなりすぎて、ついて行けません」
「私もただの騎士ですから、政治的発言権はありません。ですが、歯車には歯車の矜持がある。対価として医局も特捜も、予定していた予算増額の割合を二倍に引き上げるようお願いしました」
「倍! 倍ですか……え、ユエさんてそんなに高い給与を獲るんですか」
「いえ、ナックルせんせいと同額でいいそうですよ」
「えー、じゃあ、受付の制服作ったり、備品を新調できる?」
文字通り現金なローズの反応に、チェリーナは口元を緩めた。
「ふふ、ローズせんせいもすっかりこちら側ですね。予算管理って骨が折れますもんね」
「ですよねえ」
「コタロウの体調も診て貰えるし、優秀な医師としてお役に立ちますよ、きっと。ユエ殿のこと、よろしくお願いしますね」
「はい、わかりました」
込み入った政治的背景については思考の外へ追いやったローズは、笑顔でチェリーナを見送った。彼女の話術にはまったことに気づいたが後の祭りだった。
「ユエとして残れ? チー家を離れる身だ。命令を聞く筋合いはない」
ウェザビーの送還手続きに訪れたチー家の使者は、次期当主候補テンテンの従者だった。サンが軟禁されている王宮の一室で彼と面会した彼女は、モールフィを扱える医師として王宮医局に勤めるよう要請した。
「チー家を離れるあなたは、我々が守る対象ではなくなる。サン・ユエが異国で麻薬密売の罪で裁かれても、チー家には何の痛手にもならない」
「ほう……私を脅すか」
「それがチーのやり方じゃないの、あなたが教えたのよ」
己の従妹に脅されたサンは、ふと体の力を抜いた。
「いいだろう、医師として勤めてやる。ただし、サン・ユエとなったからには、今後一切チー家の命は受けない」
脅し交じりに提示された未来について、思いを馳せつつ、彼女の声を聞いている。
「ええ、それでいいわ。主は無理強いするなって仰ったのよ。慈悲深いことにね。私はこれからのチー家のためには、あなたがこの国で楔となることが必要だと思ったの……謝らないわよ」
サンは使者に付き添っていた騎士が腹痛を起こすよう工作をしていた。彼が交代を手配するため席を外した僅かの間に、従妹と秘密裏に会話するつもりだった。交代の騎士が入室した後は事務的なやり取りへ移行した。彼が今後、従妹と私的に会話を交わす機会はないだろうが、後悔はなかった。サンは己を警戒していたコタロウを思い出し僅かに頬を緩める。
「牙向く獣を飼いならすのもまた、一興か」
彼が軟禁されている間、ターニャの自宅に預けられていた赤柴は、そのまま譲渡することにした。
「え、いいんですか!! 母が喜びます」
解放されたサンは、とりあえず医局の受付へ挨拶に訪れた。
「家族として受け入れてくださる家があるなら、その方がいい」
コタロウ、ツキマル、ターニャの家で飼われることになったフク、とセリーナで生活する柴犬が三頭に増えた。




