Ⅲ 第七章 第6話
王宮医局の検査室でナックルが器具を洗うのを見守っていたナナーシュは、扉を叩く音を聞いて立ち上がる。
「失礼します。せんせい、ナナーシュさんも、どうもっす。スローリー先生を捕まえました」
ルークの言葉を聞いて、ナナーシュは静かに頷いた。
「そうか、鑑定書は極めて正確だ。言い逃れはできまい……だが、ナナーシュ、ルークの顔を見ろ。君のせいで上官に殴られた」
「はい、反省しています。事前に相談と根回しをすべきでした」
丁寧に腰を折るナナーシュに、ルークは困った顔で額を押さえる。
「……いや、あの、そこじゃねえんだけどね? まあいいか」
小走りに近寄ったナナーシュが、彼の顔を下からのぞき込んだ。
「痣になっています、愛らしいお顔に傷がついてしまいました。本当に申し訳ございませんでした」
「あ、愛らしい? ちょっとやめてよ、ナナーシュさん」
ナナーシュがクスクス笑い声を上げるのを、ナックルはじっとりした目で見やった。
「説教の意味を理解していないぞ、ナナーシュ……リー家の娘らしいと言うべきか」
「えー、リー家ってやっぱり変わってんなあ」
「否定はしない。正当な手続きさえ踏めば構わないと思っている」
「それって、ナックルせんせい、人のこと言えないっすね」
ナックルとナナーシュは真顔で顔を見合わせる。暫しの沈黙の後、ナナーシュは再び笑い声を上げた。ナックルは肩を竦めて洗浄作業を再開する。
「ではもう、私は学園に戻ってよろしいのですか」
「そうっすね、学園まで送ってくっす」
「ありがとうございます、ルーク様。ではおじ様……あの、また、こちらに伺ってもよろしいでしょうか?」
遠慮がちな口調で申し出たナナーシュが、不安そうにナックルの背を見つめていた。
「俺は構わないが、王宮は規則にうるさい。手続きは踏め」
「はい!」
嬉しそうに返事をしたナナーシュは、ルークに促されて検査室を出て行く。医局の受付には、ナナーシュを護衛するために派遣されたガンメタールがいて、コタロウと戯れている。
「ガンメタ先輩、俺、この子送ってくんで、任務終了っすよ」
「なんじゃ、もう終いか。もっと遊びたかったのう、コタロウ」
「クーン」
事件の真犯人を捕縛したこともあり、すっかり気の抜けた騎士同士の会話に、聞いていたターニャとセイラは顔を見合わせて笑った。
「お二人とも、お世話になりました。ワーロングせんせいにも、お礼をお伝えください」
ルークの横でナナーシュが受付の二人に丁寧に挨拶をする。
「はい、お気をつけて」
ターニャは会釈をした後で、ナナーシュの背に添えられたルークの手を見つめて小首を傾げた。
ナナーシュがルークに付き添われて学園へ戻っている頃、シオリは音楽棟の練習室にいた。特別捜査部隊が学園に侵入していた賊も生徒襲撃の真犯人デビットも捕縛したので、生徒の単独行動が許可された。早速事務室に音楽棟の使用を申請したシオリは、一心不乱にバイオリンを弾いている。
「ふう……」
一曲、二曲、小一時間ほど弾いた彼女が息を吐き出して手を止めた時、練習室の重厚な扉が外から強く叩かれた。小さなのぞき窓へ近づいたシオリは、扉の向こうでヒラヒラと手を振るカイを見つけて顔をしかめる。
「何よ」
口の動きだけで抗議するシオリに、カイが扉を開けるよう促す仕草を見せた。シオリは持っていたバイオリンと弓をクラヴィーナの上に置いてから、扉を開ける。
「邪魔してごめん、少しだけいいかな」
「……もう、終わりにするから、別にいいけど」
カイは音もなく部屋の中に滑り込み、しっかり扉を閉めた。
「あ、ねえ、扉は開けておいて」
「嫌だ」
「はあ?」
「婚約者がいるから外聞が悪いって理由だろう?」
「そうよ」
「だから、嫌だ」
困惑の表情になる彼女に、カイは爽やかな笑顔を向ける。
「……スローリー先生のこと? 私も変だと思ってた」
夕暮れの中、騎士に連行されていくデビットを思い出し、シオリは口元を歪めた。
「そうなんだ、シオリは鋭いんだな」
「元々、自分は公平な教師だって顔して生徒をえり好みしてる、嫌なヤツだとは思ってたし。ナナーシュのことは、気持ち悪いぐらい気に入ってたじゃない。ダイを邪魔に思っても変じゃない」
カイは苦笑して頷く。
「そうか。俺は留学生にも親切ないい先生だっていう先入観があってさ、気づけなかったんだ。ほら、先生の中でも東方を快く思っていない人も結構いたし」
カイの声を聞きながら、シオリはクラヴィーナの前にある椅子に腰を下ろした。
「ナナーシュは、アンタよりよっぽどスローリーに傾倒してたから、落ち込んでるんじゃないの」
「うーん、どうかな? そんな風には見えなかったよ。だいたい、彼を捕まえるために協力を買って出たくらいだから」
「協力って?」
「うん、まあ、それは言いにくいからまた今度ナナーシュに聞いて」
カイはクラヴィーナに両肘を乗せて、シオリの横顔を見つめる。
「ふうん、まあ、あの子が平気ならいいけど」
「ハハ、本当にいい子だよね、シオリって」
「何よ、その、言い方……」
じっと見つめる視線とかち合って、シオリはさっと目を伏せた。
「弟を失うかもしれないってなった時、もっとああすれば良かった、こうすれば良かったって色々考えた」
「……そう……だいぶ、回復したんでしょ」
「うん、日に日に元気になってきてる」
「良かった」
「うん、犯人も捕まったしね――で、だ」
カイはシオリの前まで移動して両ひざを床に着いて彼女の腕を掴んだ。目を見開いたシオリは、笑顔の中で異質な輝きを放つ彼の目を見て息を飲んだ。
「君が好きなんだ」
爛々と獲物を狙うような目つきだったが、声音は優しい。彼女は魅入られたようにカイの顔を見返して黙り込んでいる。
「君が、生き生きとした音楽を奏で続けられるように、何でもする。だから、俺を選んでくれないか?」
「……カイ、無理よ、私はもう、シェードと婚約してる」
「でも、俺のこと、気にしてくれてるよね?」
彼は逃がすまいと掴んでいた腕を辿って、その指先で彼女の両手を包み込んだ。
「シェードの家にも君の家にも筋は通すよ。後ろ盾も当てがあるから、頼み込む。シオリ、君が好きだ。失いたく、ない」
滑らかな手の甲に額を押し付けながらの囁くような懇願に、黒目がちの大きな目が潤む。濃く長い睫毛が瞬く音だけが室内に響いた。
「……わかった」
どう答えて良いのか逡巡の末、シオリの口から零れ出た言葉は短く不明瞭だった。カイは素早く顔を上げる。少女の頬がランタンに照らされて真っ赤に染まっていた。
「それって、俺を選ぶってことでいい?」
シオリはカイの手を押しやりながら顔を背ける。
「わかったって、言ってるでしょ」
剣呑な照れ隠しの直後、シオリはカイの腕の中にいた。膝を着いたままシオリを強く抱きしめたカイは、彼女を立たせると同時に唇を近づける。
「ちょ、何するのよ」
「キス、していい?」
「ま、まだダメに決まってるでしょ」
「したい。かわいい、シオリ、お願い」
「……わか、った」
「……好きだよ」
そっと目を閉じたシオリの口に、彼の吐息と唇が少しだけ触れて、離れた。




