Ⅲ 第七章 第3話
ルークの口許に薬を塗りながら、ローズは背後で腕を組んで仁王立ちしているメルヴィンをちらと見上げる。
「メルさん、殴ったのは顔だけ?」
「いや、腹もやった」
「そうなの? お腹も塗る?」
「いえ、受け身を取ったんで、平気っす」
神妙な顔で答えるルークの隣で、ヒースレッドも項垂れている。
「やった後で顔はまずかったと思って腹にした。ヒースも診て貰え」
「……はい」
ルークと入れ替わり、シャツをたくし上げたヒースレッドの患部は赤黒く腫れていた。
「ヒースレッド君の方が重傷ね……罰だからって全く腹圧をかけなかったんでしょ? そこはルーク君みたいに上手くやりなさい。セイラ、冷やしてあげて」
「はい」
困り顔になるヒースレッドに、セイラが冷水に浸した布を当てる。声もなく息を飲んで前屈みになる彼を、床に膝を着いた姿勢のセイラが心配そうに見上げる。
「ルーク君もお腹に布を当てて冷やしなさい」
「ういっす」
ルークは桶の中へ手を突っ込んだ。
「冷てえ」
呟きながらシャツをたくし上げた彼を見て、ローズは小さく息を吐いた。
「気持ち悪かったりはしないわよね?」
「平気っす」
「はい」
二人が同時に答える。ローズは頷いて立ち上がった。
「暫く冷やしておいて、メルさんはこっち」
治療の様子を見守っていたメルヴィンの腕を引いて、ローズは診察室を後にする。受付ではターニャが心配そうな顔で様子を窺っていた。
「ああ、ターニャ。二人とも大丈夫、大したことないから」
「そうですか」
ほっと息を吐くターニャの後ろにいたコタロウが、ローズが出てきたことに気づいてカウンター下から顔をのぞかせる。
「コタロウ、いい子ね、まだおしまいじゃないの、待っててね」
ローズは最奥にある検査室前の廊下までメルヴィンを誘導し、ランタンの灯りの下で歩みを止めた。大人しくついて来た騎士は、静かに医師を見下ろす。
「で? 理由を聞いてもいいわよね」
「ああ……あの二人は、ナナーシュ嬢とカイがスローリーから上着を奪取しようとするのを予見できず許した。スローリーはまだこっちが疑ってることに気づいてねえだろうから、危険は薄い。だが、騎士として民間人の独断横行を許した点は制裁を加えなくちゃならねえ」
「証拠品を手にしたナックルが嬉しそうじゃなかったのは、そういう理由だったのね。でもどうして二人は上着の鑑定が必要だって知ってたの?」
「議長命令で、二人には危険を知らせておくべきだってお達しがあった……宗家のお姫さんが大胆にも策を巡らせて証拠を持ってくるとはな、ランスも俺も予想できなかった……だからってまあ、張り付いていた二人を不問に付す訳にもいかねえから」
「だから、鉄拳制裁? ちょっと時代を遡りすぎなんじゃないの」
「俺だってやりたくてやってねえよ」
後頭部をかきながら弁解するメルヴィンを、ローズは目を眇めて睨んだ。
「軍法会議とかあるじゃない」
「特捜は超法規だからな、騎士の不祥事に対する処罰が明確に決まってねえ」
「そんなことあるの」
「チェリも頭抱えてた。今まで上手く行ってたもんだから、当然検討しとかなくちゃならんことを失念してたってよ。まあ、普通に警邏や近衛と同じような規律に従っとけばいいんだろうが、相手もこっちも公にできねえ状態で色々動いてるから、どうにもならん。で、ぶん殴った」
ローズは大きく息を吐いてメルヴィンの腹部に拳を添える。
「加減を間違えてたら、内臓にまで響くわ。次は拳じゃなくて他の懲罰をお薦めします」
「ああ、そうだな」
大人しく受け入れたメルヴィンは、腹部に添えられたローズの手をそっと握った。
「診断書にも書き加えておいてくれ」
「ええ、そうする……なあに」
手を握ったまま放さないメルヴィンに、ローズは小首を傾げる。
「小せえ拳だな」
呟いてメルヴィンは彼女の手を解放する。
「メルさんに比べたら誰の手だって小さいでしょうに」
ローズのぼやきを背に、メルヴィンは手を挙げてルークたちの元へ戻って行った。真っ赤に染まった彼の耳はランタンの影になり、気づかれずに済んだ。
始業前の早朝、中庭の噴水前のベンチにカイとナナーシュが並んで腰かけている。カイの傍らには東方大剣が立てかけてあり、のどかな風景に剣呑さを加えていた。
「さすがにこってり絞られたな」
「おじ様にすごい力で頭をぐりぐりされたわ」
笑いながら答えるナナーシュに、カイは苦笑して続ける。
「無茶だったけど、君が危険を冒した価値はあったよ。アレは、人を人とも思わない輩だ、早くここから追い出したい」
「ええ、本当に、許せない」
「人間に色々な一面があることなんて知っていたのに。アレの異常性に気づけなかったことを反省しないとダメだな、俺も、ダイも」
「それは私もだわ……あんな人を尊敬していたのよ……愚かすぎたわ」
ため息交じりに力ない声で同意するナナーシュの隣で、カイは己の膝を叩いた。
「シェン家武門の誇りを、取り戻す」
「ダイが安心して戻れるように、私もできることはするわ」
「ナナーシュはもう動かなくていい。特捜の副長殿にもリーせんせいにも釘を差されただろう? 俺が見ておくから、もう近づくな」
囁いたカイが咳払いの音を捕えて振り返ると、噴水を挟んで向こう側からシオリが姿を見せた。
「おはよう、シオリ」
「おはよう、ナナーシュ……カイも」
「うん、おはよう。久しぶりだね、シオリ」
爽やかな笑顔を浮かべるカイを、シオリは目を眇めて睨みつける。
「……大丈夫なの?」
遠慮がちに問いかけるシオリに、カイは大きく頷いた。
「ああ、もう、心配はない。後は快方に向かうだけだって言われたから」
「ダイのことは、ナナーシュに聞いた。アンタは……」
「俺? 俺はこの通り、元気だよ。久しぶりに君の顔が見られて嬉しい」
「な、何を言って……そんな軽口が叩けるくらいに戻ったなら、いい」
さっと踵を返したシオリは、離れた場所で待っていたシェードに向かって駆けて行く。
「あ、シオリ、後で君のバイオリンを聴かせてくれないか。シェードと一緒でいいから」
カイの声が聞こえているのだろうが、シオリは振り返らない。シェードはカイとナナーシュに向かって、片手を挙げて見せた。二人が並んで去って行くのを見送って、ナナーシュが悪戯っぽい笑顔になる。
「シオリったら、カイのことも心配だったのね」
「うん、俺のことなんて気にもかけてないのかって思ってたよ」
「そうなの? カイったら案外鈍感なのね」
「だってさ、ナナーシュ、傾国の乙女には、強面の騎士が婚約者として侍ってるだろう」
「乙女に侍る騎士の座をかけて戦わないの」
ナナーシュの問いかけに、カイは立てかけてあった大剣の柄に手を置いた。
「戦ったら……乙女の生きがいを奪うだろ?」
「それは、私たちがアルセリアの貴族ではないから、シオリの後ろ盾になれないという意味で言ってる?」
カイは無言で澄んだ青空に浮かぶ雲へ視線を向ける。ナナーシュは立ち上がってカイを見下ろし、囁いた。
「彼女があなたを選ぶなら、どうとでもできるわ。覚悟の問題よ」
答えないカイを置いて、ナナーシュは本館玄関へ向かって歩き出す。残されたカイは暫くの間、黙って空を眺めていた。
授業の合間の休み時間、青ざめた担任教師が教室へ飛び込んで来た。
「皆、着席してください、急いで」
生徒たちはまだ始業時間ではないことを訝しみながら着席する。
「今から、騎士団の方々が……学園内で、先日の事件の凶器の捜索をするらしい。君たちは皆、教室から出ないように」
一番後ろの席に座っていたシオリが鋭い声を割り込ませた。
「それって、騎士団からの命令ですか」
「……そうだ、マドセン君」
「出たら捕縛されちゃうのかしらあ」
芸術科に通う生徒数は少なく、変わった価値観の者が多い。担任教師は苛立ちを隠さず言った。
「捕まるのは勝手だが、私の責任になったら困る。大人しくしていなさいっ」
教室内に騒めきがさざ波のように広がったものの、席を立つ者はいない。
「ねえ、マドセンさーん、留学生と親しかったわよねえ? 怪我をした大きい子、死にそうだったんでしょ? もう平気なのかしらー」
前の席の女生徒が振り返り、問いかける。シオリは眉間に皺を寄せた。
「ダイは助かったわ」
「そうなのー、良かったわねえ。それにしても、凶器が学園にあるなんて、怖いわねえ、この前演じた歌劇の一幕みたいに斬り合いになったりするのかしらあ」
「……ただ、捜すだけなんだから斬り合いになんて、あ……」
言葉の途中でシオリは小さく息を飲んだ。登校前に噴水前のベンチで、ナナーシュとカイが話していた内容の断片が脳裏をよぎる。シオリの聴力は常人より優れている。彼らの話し声の断片が、風に乗って聞こえていた。
「どうしたのー? マドセンさーん」
「なんでもない、これ以上話すことはない」
「相変わらず冷たいわあー」
冷たく断じられ、クラスメイトはのんきに呟きながら、前に向き直った。




