私の夢
色々なことがあった1週間も週末を迎えた土曜日の午前。各自、朝ご飯を食べ終わった後は、それぞれ自分の時間を過ごしていた。私は、キッチンで食後に紅茶を淹れると、そのままダイニングテーブルに座って、今読んでいる小説を開いた。私にとって、とても贅沢な時間だった。肉体的にも精神的にも誰にも邪魔されず、犯されず、全く危険がない環境で、美味しい紅茶を飲みながら静かに好きな本を読み耽る事が出来る。つい半年ほど前の私には、全く想像もできない環境だった。
「小華さん、今ちょっと時間あるかな?」
優仁が、階段のある廊下側のドアを小さく開いて、ひょっこりと顔を覗かせた。
「あ、ごめんなさい。本、読んでる所だった?」
「いえ、大丈夫です。今日は特に予定ありませんから。何でしょうか?」
「えっとね、先日のトラブルの件の話をできればと思ったんだけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です。」
優仁は冷蔵庫から冷水筒を取り出し、中に入った麦茶をコップに注ぐと私の対面に座った。
「警察でね、今後の事も含めて詳しい状況を児童相談所の木原さんと聴いてきたんだ。突然、お父様が「こもれび」にやってきてびっくりさせちゃったよね?」
「はい……。」
「不安な思いをさせてしまって本当にごめんなさい。こんな事はあってはいけないんだけれどね……。僕もびっくりしたよ。だって小華さんがどこに居るのかは、安全の観点もあって居場所は全く伝えていないから。」
「とんでもないです……。むしろ私の義父が「こもれび」のみんなに迷惑をかけてしまって本当に申し訳ないです。城田さんにも怖い思いをさせてしまったかもしれません。」
「いやいや、小華さんが謝る事ではないよ。それに僕はあんな恫喝くらい全く平気だから大丈夫。」
「そう、だったんですね……。城田さんがあんなに真剣に、義父の怒声に全く怯まず、毅然と対応してくれて本当に胸が熱くなりました。」
「あはは、ちょっと恥ずかしいな……。以前、僕は自動車メーカーに勤めていたんだけれど、世界中で数百万台規模の不具合をほぼ僕のミスで仕込んでしまった事があるんだ……。そっちの方が何千倍も何万倍も恐ろしいよ……。」
「え……。世界中にですか?」
「そう、世界中の数百万人のお客様にね。それにくらべたら、あんなの何ともない。」
優仁はそう言って、「あはは」と声高に苦笑いをした。
「お父様は、小華さんが「こもれび」に居る事をお母様から聴いたらしい。」
「え?」
なぜ母が私の居場所を知っていたのか、よく理解できなかった。さっき優仁は居場所を伝えていないと言っていたのに。
「僕と木原さんが、一度、ご両親へ挨拶に自宅へ伺った事があったでしょ?あの時、僕達は帰り道をつけられてたらしいんだ。」
「母が?本当ですか?そんな仰々しくて小賢しい事ができる人だとは思えませんが……。」
「うん。どうやら、お父様の指示みたいだよ。」
優仁から更に詳しい話を聴くと、義父は、私が逃げて「こもれび」に住み始めた後、虐待の告白や痕跡から自身が逮捕されてしまうのではないかと恐れ、最悪、私を連れ帰って再び暴力でもって私を制御し、虐待などはないと、暴力などは一切されていないと、私に証言させるつもりだったらしい。それ故、私の居場所を突き止める為に、自宅へ挨拶に伺うアポイントメントを取った際、事後に尾行する様に母へ指示をしたらしい。実はここ数日の間で、私の虐待の告白、証言や、以前の病院での検査結果に基づき、義父を逮捕するべく警察が動いてくれていた様だった。ただ義父も狡猾な所があって、私が逃げた日の後は、あまり自宅に帰らず、仕事先の先輩や同僚、後輩の家を転々と寝泊まりを繰り返し、足取りを簡単に追えない状況を作り出していた。母も、ここ最近の自宅周辺での違和感を感じ取ったのか、義父に見慣れない人々(警察だと思ったらしい)が自宅周辺を彷徨いている事を連絡し、私を無理矢理にでも連れ戻す為に、今回の凶行に至ったと言うのが事の顛末だった。何と愚かなのだろうか。私を連れ戻し、私に無理矢理、虐待の事実はないと証言させた所で、児童相談所への打ち上げや病院での検査結果など、既に証拠は揃いすぎていた。奴が捕まるのは時間の問題だった。
「詳しく教えてくれて、ありがとうございます。状況がよく分かりました。」
「うん。」
「そう言えば、義父が「こもれび」に乗り込んできた日、お巡りさんが駆けつけてくれましたが、事前に110番していたんですか?」
「そうそう。僕が玄関で対応する前に結衣を呼んでね。ちょっと揉める様だったら110番するように頼んだんだよ。」
「やっぱりそうだったんですね。」
「うん。匙加減がね、なかなか難しいよね。断ってすぐに帰ってくれれば、そこまでしないんだけどね……。色々と物を殴ったり蹴飛ばしたりしてたから流石にね。裏で結衣が110番してくれたみたいで助かったよ。でも浩が殴りかかるとは思わなかったな。あれには間に合わなかった……。」
優仁はやれやれと言った様子で、苦笑いをしながら言う。
「あれは……。私は、本当に申し訳ない事をさせてしまって……。私の為とはいえ、相手を殴った上に自分まで大きな怪我を……。」
「まぁまぁ、あんまり気にしないで。浩が、自分でやりたくてやった事なんだから。怪我も大事に至らなくて良かったし、お巡りさんからも厳重注意で済んだしね。これが学生の浩じゃなくて、僕だったら大変だったよ。もしかしたら僕まで逮捕されてたかも。その点では、浩には良くやったって褒めてやったけどね。」
「褒めたんですか!?」
「そうだよ。だって、僕も殴ってやりたい気分だったもの」
優仁が、褒めてやるのは当然とでも言うように、「あはは」と声高に笑ってみせた。普通なら怒ったり注意したり躾けるのが普通のような気がするが、むしろ褒めた事が何だかおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
「あ、あと、これから義父はどうなるのでしょうか?」
「そうだね……。僕も法律は専門じゃないから詳しくは答えられないけれど、今は警察で取り調べをしていて、その後に検察から起訴されれば裁判、児童への虐待では実刑判決になる事も珍しくない……。こんな所かな……。」
「なるほど……。いずれにしても、いつかは世の中に戻ってきてしまうんですよね……。」
「そうだね……。これくらいの罪だと、ずっと刑務所に入っている訳では無いね。まだ少し不安かな?」
「あ、いや。もう二度と顔も見たくないですから……。できればずっと牢屋に入っていて欲しかっただけです。」
「大丈夫。もう二度と「こもれび」には近づけさせないよ。もし世の中に戻ってきても、小華さんの事は僕だけじゃなくて「こもれび」のみんなで守るから。」
「ありがとうございます。本当に……。本当に「こもれび」のみなさんには感謝しています。優理さんが守りたかった、自分のお母さんが作った「こもれび」の事、私、少し分かった気がするんです。」
「優理のお母さんのこと……。理子のこと知っているの?」
「はい……。優理さんからお話を聴きました。「こもれび」をずっと運営してきて、みんなの本当のお母さんみたいに沢山の子供達に慕われていたって。でも、優理さんの目の前で交通事故で亡くなってしまった事も聴きました。」
「そっか……。優理は小華さんに話したんだね。」
「はい……」
私が小さく頷くと、優仁はおもむろに立ち上がり、「ちょっとこっちに来て」と小さく手招きする。後を付いていくと、優仁の部屋に案内された。優仁の部屋は玄関をあがって、すぐ左側、階段の向かいにある。初めて入ったが、中の広さは自分の部屋とほぼ同じだった。引き戸になっている入口を入って正面にはデスクがあり、そのすぐ目の前にある窓から外の明かりが差し込んでいる。デスクの左隣には足側を入口に向ける形でベッドがあり、フットボードの側にはクローゼットが備え付けられていた。優仁は、そのクローゼットの左隣を手のひらで指し示す。そこには、木製の一般的な戸棚の上に、こぢんまりとした簡易な仏壇が佇んでいた。仏壇の中には、黒檀調の厳かな位牌と、その前に笑顔で一杯の家族3人の集合写真がフォトフレームに入れて飾ってあった。優理はまだ幼くて、幼稚園児か小学校低学年といった佇まいだった。
「これこれ。これが理子。優理のお母さんだよ。」
優仁が写真の中の、長い黒髪をポニーテールに縛り、ひときわ明るく笑っている利発そうな女性を指差して言う。
「うわ。そっくりですね。」
「だよね。最近、どんどん理子にそっくりになってくんだよ。性格は全く違うけどね……。」
「そうなんですか?優理さんのお母さんは、優理さんみたいに天真爛漫って感じではない?」
「うん、簡単に言うとめっちゃ怖い……。色々きちんとしないと、すごい怒られる……。」
「確かに優理さんぽくないですね。優理さんが怒っている所、見たことないです。」
「でしょ?でもその分、自分にも厳しいし、肝が据わっているし、大勢の仲間を引っ張っていくリーダーシップもあったから、「こもれび」の立て直しから軌道に乗せる所まで成し遂げられたんだと思う。」
「私も優理さんのお母さんに会ってみたかったです……。」
「そう?いっぱい怒られるよ?まぁその分、たくさん褒めてもくれるけどね。」
優仁はそう言って「あはは」と冗談ぽく笑った。何となく言伝に聴いていた優理のお母さん像の解像度が増していく。もし私にも、優理のお母さんの様な母がいたら、いつも怒られてゲンコツをされたり、でもたくさん褒めてもくれて、そして美味しいご飯を毎日作ってくれて、そんな日々を送れたのだろうか。
「最近、優理さんを見ていて思うんです。たぶん今の「こもれび」の温かくて優しい雰囲気は、優理さんのお母さんが作ってきたもの、大切に育ててきたものなんじゃないかなって。」
「うん、それは間違いないと思うよ。」
「でもそれは、優理さんのお母さんが亡くなった後も、優理さんや城田さん、結衣さんや下田さんが引き継いで必死に守り抜いてきたから、今まで連綿と受け継がれてきたんだと思います。私は、その「こもれび」に、地獄の底から救って頂きました。」
「うん。」
「だから……。だから私は……。私は優理さんと一緒に「こもれび」で、その意志を、優理さんが大切にしている、優理さんのお母さんの意志を、守っていきたいんです。それが今の、私の夢なんです。」
柄にもない薄っぺらい事をべらべらと話しすぎた気がする。でも優仁は、そんな戯言にも真剣に耳を傾けてくれた。一瞬、考えるふりを見せると、「夢かぁ。理子が聴いたら泣いて喜ぶだろうなぁ……。」とボソリと呟いた。
「あ、あの!ごめんなさい。夢なんて大それた事を……。私、優理さんのお母さんに会ったこともないのに……。」
「いやいや良いんだよ。僕はとっても嬉しい!小華さんは、誰よりも人の痛みを理解できるから、そんな人になら十分「こもれび」を任せられるよ!」
「本当ですか?でも、具体的に何をすれば良いかは、まだ分からないんです。例えば、優理さんと一緒に「こもれび」の仕事をお手伝いしたり、高校を卒業したら本格的に「こもれび」で働いてもいいかなと思っているんですが……。」
「うん、うん、いいね、いいね!そうやって自分のやりたい事をイメージするのは良い事だよ!でも小華さんは、せっかく優秀なんだから大学に行ったほうが良いと思うな。あの成績なら良い奨学金も借りられるだろうし、「こもれび」からも多少は援助ができる。だから社会福祉学系の大学に行って専門性を身に付けてからでも、「こもれび」で働くのは全く遅くない。大学に通いながら優理と一緒に「こもれび」の仕事を手伝う事だって出来るから。」
「大学……。ですか?」
正直、大学は諦めていた。学費を払うことが、到底、無理だと思っていたからだ。それに自分にそんな実力も価値もないと思っていた。
「私、大学に行けるんでしょうか?正直、金銭面も実力も、あまり自信がありません。」
「大丈夫!「こもれび」を卒業していった人で、大学を出た人なんて沢山いるよ!それに小華さんの成績で大学に行かないのはもったいない!絶対に行った方が良いよ!」
「分かりました……。大学、目指してみます。そして……。そして大学を卒業したら、優理さんと一緒に「こもれび」で、私みたいな困っている子供達をたくさん助けてあげたい……。」
優仁は「いいね!いいね!夢があるって事は本当に良いことだよ!」と、さも自分の事のように半ば興奮気味に励ましてくれた。私は優仁に一言ことわって、優理のお母さんの理子さんに線香をあげると、見様見真似で静かに合掌した。
(優理さんは本当に毎日、毎日、頑張っています。お母さんが亡くなった後も決してへこたれず、理子さんの最後の言葉を胸に、沢山の子供たちを地獄の底から救う為、天真爛漫に、元気いっぱいに日々を過ごしています。どうか、そんな優理さんを天国から見守って応援して下さい。)
優仁とダイニングキッチンに戻ると、突然、優理の頭が視界に飛び込んできた。
「ねぇ、ハナちゃん!「こもれび」で私と一緒にお仕事のお手伝いしてくれるの!?」
「え……。聴かれてた?」
「うん!私と一緒に「こもれび」を守りたいとかなんとかって!最高!ハナちゃんと一緒に「こもれび」で働けるなんてこれ以上ない!ねぇお父さん!いいでしょ?ハナちゃんと一緒にいつものお手伝いしても!」
「うん、そうだね。次、巡回に行く時は小華さんも一緒に行こうか。」
「やった!!私とハナちゃんが一緒なら、どんな地獄からだって、たくさんの人を救えると思うんだ!!最高の相棒だと思わない??」
私もそう思う。優理と一緒なら、どんなに混沌とした地獄の底に居る子供だって、一気に天国に引き上げる事だって容易だろう。私がそうだったのだから。その気持ちは、あえて言葉にはしなかったけれど、その変わり、懐で私に抱きついている優理の背中に腕を回すと、その熱い身体をぎゅっと強く抱きしめた。
Δ1(2026/7/13):一部誤記を修正しました。




