サプライズ
私に恋人ができた。朝、目が覚めると、昨夜の出来事は夢ではなかったのだと現実を実感して安堵し、心が一気に浮ついた。正直あり得ない、意味の分からない状況だと思った。これまでの私の人生において、誰かに好かれたり、誰かを好きになったり、両思いになって付き合ったり、それは空想上でのお伽話であって、全くもってあり得ない事だった。そもそも私が誰かに、特に男子に好かれる、恋の対象となるということ自体が絵空事であって、両親からのネグレクトと虐待を受けて自尊心を徹底的に抹消されていた私は、恋愛とは無縁の生物だと認識していた。そんな私に彼氏ができた。「彼氏」という響きが、何だかこそばゆくて、とても気恥ずかしくて、口に出すのは暫くは無理だと思った。布団の中でうつ伏せになり枕に顔を埋めながら、そんな事を考えていると、スマホが小刻みに震え通知が来た事を知らせる。浩からだった。
(行ってきます!昨日は大変だったから、今日はゆっくり休んでね!)
思わず顔がニヤついてしまう。浩からの何気ない連絡ごときで、こんなに舞い上がってしまう自分に嫌気がさすほど脳内はピンク一色だった。
布団から出て身だしなみを整え、1階のダイニングキッチンに行くと、優仁がコーヒーを飲みながらスマホを眺めていた。いつも私が座っている席には、私の分の朝食が準備してあって、味噌汁から湯気が立っておりまだ温かそうだった。
「小華さん、おはよう。ちょうど、みんな学校に行ったところだよ。よかったら朝ご飯、食べて。」
「おはようございます。私、今日お休みなのに、準備してもらってすみません。」
「いいえ、気にしないで。それより、昨日はあの後、きちんとお話できなくてごめんなさい。」
「えっ……。」
「優理と結衣の方が小華さんと距離も近いし、同性だし、何でも話せると思ってサポートをお願いしたんだけど、責任者の僕が何も小華さんにお話しをしないのは良くなかったよね……。」
「いえいえ、気になさらないでください。城田さんには城田さんの大切なお仕事があると思いまして……。病院とか警察とか色々と大変だったでしょうから……。それに優理さんも結衣さんも、本当に私を支えてくれて感謝しきれないです……。」
「本当に、きちんとお話できなくて申し訳ないです……。実はこの後も、昨日の件ですぐに出掛けなくちゃいけないんだ……。今後に関わる内容でもあるから、後でゆっくりお話したいんだけど、大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です。」
「ありがとう。昨日は本当に大変だっただろうから、今日はゆっくり休んでね。」
「ありがとうございます。」
優仁が出掛けていくと、「こもれび」には私一人になった。田辺さんが来るまではもう少し時間がある。これまでも何度かあったシチュエーションなので珍しくはなかったが、昨日の出来事もあり少し寂しく感じた。けれど私には彼氏が、浩がいるんだと言う事をふと思い出すと、昨日のどんなに辛くて苦しい思いも出来事も、いとも簡単に掻き消すことができた。
騒動があってから2日後の10月1日。今日は私の誕生日だった。「こもれび」に来る前の誕生日と言えば、誰かに祝われることなどは一切なく、何の変哲もない365日の中の、ただの平凡な1日に過ぎなかった。まだ両親が離婚する前、仲が良かったと思われる頃には、もしかしたら祝われた事もあったかもしれない。もしそんな事があったとしても、物心が付く前の出来事で今の私には全く身に覚えがなかった。騒動の後に一日学校を休み、さすがに二日も休む必要はなかったので、いつもの様に皆が起きる7時半より少し前に目が覚めた。以前だったら、腹の奥底に澱の様に沈殿している憂鬱な真っ黒い塊のせいで、ベッドから起き上がるのも一苦労だったが、今日の私にはそこまでの労力は必要なかった。朝、浩の顔が見られる、隣で一緒に朝ご飯が食べられると思ったら、不思議と軽やかに起きられるものだなと、意外と単細胞な自分の精神に呆れた。部屋を出ると、左手の突き当たりにある洗面台では、結衣が身だしなみを整えていた。いつも結衣は一番に起きて、洗面台が混雑する前に、ゆっくり準備している事が多い。今朝は髪にアイロンを掛けたり、櫛で整えている最中だった。
「小華、おはよ。誕生日おめでとう。」
「えっ……。あ、ありがとうございます。覚えていてくれたんですね……。」
「そりゃもちろん。夜中に日付まわったらスマホに連絡しようか迷ったんだけど、やっぱ直接言った方がいいね。表情がよく分かる。」
「私、そんな変な顔してますか?」
「うん、すごく嬉しそうだよ。」
実際、とても嬉しかった。これまで誰かに誕生日を祝われた記憶が全く無かったから。物心がついた時には母は既によく分からない状態になっていてネグレクト状態だったし、実の父も蒸発してしまい、両親の祖父母との節点も全く無かった。義父は当然のことながら、私にそんな気は全くないし、私の誕生日だって知らないはずだ。だから、さっきの結衣の「誕生日おめでとう」が、私にとって初めてのお祝いの言葉と言っても差し支えなかった。
「私、誕生日におめでとうって、初めて言われたかもしれません……。」
「えっ、うそ……。マジで……。」
「はい……」
「初めての言葉は私でよかった?浩に言ってもらった方がエモかったんじゃない?」
「え、え、それはその……。結衣さんでとっても嬉しいですよ。」
「一瞬、間があったけど、そっか。それなら良かった。」
結衣は苦笑いしながら言うと、髪の手入れをする為に鏡の方へ向き直り、私の為に洗面台の前にスペースを空けてくれた。私は、いつもの様に顔を洗い歯磨きを済ませ、髪を櫛で整えると、制服を着て結衣と一緒に階下へ降りた。すると、各部屋からけたたましい目覚まし時計の音が鳴り響き、7時半である事を知らせる。皆がぞろぞろと部屋から起きてくる時間だ。私達はエプロンをして、優仁が朝食の準備をしているのを手伝い、皆が身だしなみを整え終わる前に、朝食の配膳を済ませた。ここまでが私と結衣の朝のルーティンになっていた。優理が、お風呂場の横にある洗面台から戻ると開口一番に「ハナちゃん誕生日おめでとう!」と元気な明るい声で言う。すると、他のみんなも口々に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。私は皆に簡単にお礼を言ったけれど、なぜか浩だけは顔をきちんと見られず、返答もどこかよそよそしくなってしまった。そんなつもりは無いはずなのに、私と浩は付き合っていると言う状況が背後にあるだけで、何だか気恥ずかしくて、むず痒くて、みんなの前では浩を真っ直ぐに見られなかった。そのせいもあって、行きの電車の中や授業中に、変に思われてしまったのではないか、傷つけてしまったのではないかと循環思考が止まらなくなった。そんなに気になるのならスマホで浩に連絡をすれば良いのだが、そんな勇気は全くなくて、昼休みに逡巡しながらスマホを凝視していると、突然スマホが短く震え浩から通知が届いた。急な着信で変な声が出てしまったが、一人になる事が出来るあまり使われていない教室でいつもお昼を食べているので誰かに聴かれずに済んだ。通知を開くと可愛らしいウサギのキャラクターのスタンプが送られてきていて、私の悪い癖である循環思考はぴたりと止まり杞憂だったのだと安堵した。その日、学校が終わると私は半ば走る様に「こもれび」までの帰途を急いだ。
「こもれび」に着くと、いつもの様に「ただいまー」と言いながら中に入る。そこでふと、違和感を覚えた。全く物音がしないのだ。普段だったら優理のかしましい声だったり、ダイニングキッチンから聴こえる誰かの話し声だったり、テレビの音だったりが聴こえるのだが、そういった音が全くしなかった。目の前に見えるダイニングキッチンに通じるドアのガラス越しに部屋の明かりがついている事は分かるし、これから夕飯の時間帯でもあるので、いつもならダイニングキッチンに誰かが居る筈だった。私は恐る恐る廊下を進み、ダイニングキッチンに通じるドアのノブに手を掛け、ゆっくりと開き中に入ろうとした。
「「「ハナちゃん!誕生日おめでとう!!」」」
「こもれび」のみんなの歓声と共に、乾いた破裂音が無数に響き、色とりどりのテープが一斉に私の頭めがけて放たれた。
「えっ、えっ、」
私は突然の出来事に驚いて身を竦ませる。最初は状況がよく分からなかったが、みんなの満面の笑顔と手元のクラッカーと、部屋の装飾(折り紙を細く切って作った輪っかをチェーン状に繋げた装飾が壁一面に飾り付けられていた。)とが視界に入ってきて、状況が飲み込めてきた。わざわざ私の為に、こんな手の込んだ事をしてくれた事に、申し訳のなさと嬉しさと感謝とが入り混じって、思いがけず涙が出そうになる。少し滲みはしたかもしれないけれど、限界の所で堪える。最近、泣いてばかりだから、もう泣きたくなかった。せめて嬉しい時くらいは、泣かずに笑って過ごしたかった。
「どうしてこんな……。私の為に……。本当に……ほんとに、ありがとうございます……。」
私が、嗚咽を我慢しながら言うと、優理が一目散に私の懐に飛び込んできた。
「普段はこんな豪勢にはやらないんだよ!でも最近、ハナちゃんに辛い出来事があったから!私が、やりたいって言ったの!どう?びっくりした??」
いつもの様に私の腰回りに抱きつき、長いまつ毛をぱちくりさせながら上目遣いで聴いてくる。
「はい、とっても」
その背後では結衣が、飛び散ったクラッカーのテープを浩と一緒に片付けていた。
「直前ぎりぎりに優理が誕生日会を豪華にやりたいとか言うから、準備大変だったんだから……。」
「本当に、何か申し訳ないです……。私なんかのために……。」
「えっ、あぁ、いやいや大丈夫、大丈夫。小華は何も気にしなくていいからさ。これは、「こもれび」のみんながしたくてやった事だよ。」
私はふと、結衣の隣にいる浩を見遣ると、浩は私の顔を見てにっこりと笑った。私は少し申し訳なさそうに笑い返す。特に何も言わなかったけれど、浩が言わんとしている事は十分に伝わった。食事はいつもと変わらなかったけれど、今日は田辺さんが私の好きなハンバーグを作ってくれたとの事だった(田辺さんも参加したかったらしいが、家族の事情もありいつも通り帰宅した)。いつの間にか私の好きなメニューが知られていた事が少し恥ずかしかった。ご飯を食べ終わると、優仁が冷蔵庫から大きなホールのケーキを2個、取り出してきた。優理と結衣が次々とロウソクを立てていき、浩が柄の長いライターで火を付けていく。真っ白な生クリームの上には幾つもの赤いイチゴが乗っかっている。中央に飾られたチョコレートのプレートには、「ハナちゃん 誕生日おめでとう」と白い小さな文字が書かれていた。もちろん、こんな誕生日ケーキを用意してもらったのは初めてで、口がぽっかりと半開きのまま見とれてしまった。正直、食べてしまうのがもったいなくて、このまま記念に保存しておきたかった。すると優理が席を立って、部屋の明かりを消す。ダイニングテーブルの上に乗っかった大きなホールケーキが二つ。幾つものロウソクの先端に揺らめく小さな炎で、みんなの顔がぼんやりと見える。何事かと、私が様子を伺っていると、「「「Happy Birthday to you 〜」」」とみんなが歌い出した。何だかとっても恥ずかしくて、嬉しくて、とうとう我慢できなくて涙が出てくる。さっきはもう泣きたくないと思っていたのに、自分の涙腺の弱さに呆れてくる。一般的な家族の誕生日会であれば、これはよくある光景なのかもしれない。けれど私にとっては、映画やドラマの中の空想のお話でしかなくて、自分がその中心に立つ事など、これまで微塵も想像した事はなかった。
「さっ、ハナちゃん!消して!」
歌い終えると、優理が私の背に触れて促す様に言う。私は、2つのホールケーキの上で揺らめいている幾つもの炎を一気に吹き消した。




