第4話 長く短い夜
食欲はなかった。
匙を持ったまま、湯気の向こうの皿を眺めていた時間のほうが長かったと思う。
それでも、口に入れたスープは薄く澄んでいて、野菜の甘みがかすかに残る程度の味だった。
喉に引っかからなかったので、もう一口飲み、さらに一口飲んだ。パンは半分も食べられなかったけれど、皿の底が見えた頃には、冷えきっていた手が温まっていた。
匙を置いて、顔を上げた。
男の人は調理台の向こうで、黙々と根菜の皮をむいていた。こちらを見てはいない。
ただ、私の皿が空になったのを分かっていたようで、手を止めないまま、背中で「ん」とだけ言った。
「ごちそうさまでした。あの、本当にありがとうございました。さっきも、港で」
「いい」
「お金、少しなら払えると思うんです。持っているので」
「余りだ」
さっきと同じ言葉を、同じ調子で言われた。余りものでこんなに丁寧なスープが出るのかと思ったけれど、それ以上は言い返せなかった。皮をむく刃の音だけが、しばらく食堂に続いた。
「身寄りは」
唐突に聞かれた。
「……いません。こっちには」
「泊まる所は」
「ないです」
「なら、泊まっていけ」
私は瞬きをした。
「え」
「空きはある。奥の部屋だ」
それだけ言って、男の人は皮をむく作業に戻った。有無を言わせない言い方でもなく、恩に着せる声でもなかった。私が断るかどうかも、たぶん、どちらでもいいのだろうと思った。
どうして、と聞こうとした。会ったばかりの、何も持っていない子どもに、どうしてここまでしてくれるのか。聞いておかないと、どこか落ち着かなかった。
口を開いたところで、ぽろりと涙が落ちた。
自分でも驚いた。悲しいと思ったわけではなく、お腹が温まって、体の力が抜けた拍子に、勝手にこぼれてきた。
慌てて袖で拭っても次から次へと出てくるので、私は何も言えないまま下を向いた。
男の人は包丁を置き、手を拭いて、私の前を通り過ぎた。
「来い」
階段を上がる足音が、私のものより先に二階の廊下に響いた。涙を拭きながら後ろをついていくと、突き当たりの扉の前で足が止まった。男の人は扉を開けて、中の燭台に火を移した。
小さな部屋だった。寝台が一つと、小さな卓と椅子、窓には厚い布がかかっている。寝具は洗い立ての匂いがした。
「ここだ」
「あの」
「寝ろ」
それだけで、男の人は扉を閉めて、階段を下りていった。
名前も聞いていなかった、と思ったのは、足音がすっかり聞こえなくなってからだった。
部屋に一人になった。
靴を脱いで寝台に腰を下ろすと、布がきしんだ。蝋燭の火が小さく揺れて、壁に私の影が伸びる。窓の厚い布の向こうは、まだ明るいのか、暗いのか分からない。ただ、そこからは潮の匂いがかすかに入ってきていた。
横になって、天井の梁を見た。
海の匂いが、あまりにも普通だった。あのふるさとの海の匂いと同じだった。小学生の頃から嗅いできて、飽きることなく、好きだと思い続けてきた匂いだった。夢も、卒論も、毎週末の釣りも、全部あの匂いの中にあった。
それなのに今は、息が詰まる。
ほんの数時間前までは、自分の全部だと言えた海なのに、思い出すだけで脚が熱くなる。好きなものに、嫌悪を覚えている自分に気づいてしまって、体の奥から冷たいものが這い上がってきた。
好きだったのに。
私は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
スマホは、ない。ポケットに手を入れてみても、あるのは革袋の硬貨だけだった。
母に「着いたよ」と送ることも、日向に「大丈夫だった?」と聞くことも、もうできない。研究室のグループチャットも、既読のつかないままに溜まっていくのだろうか。
いや、溜まりもしない。私の画面は、もう誰にも届かない。
日向は、どうしただろう。あの後、泣いたまま船の上で動けなくなっていなかっただろうか。船長さんは、あの子を責めなかっただろうか。先輩を助けられなかったと、いつまでも自分を責めたりしていないだろうか。
母さんは、私が出ていったあの朝のことを、何度も思い出すんだろう。「お昼に食べり」と言った弁当は、私の鞄ごと海に沈んだ。
健太は、最後に揶揄って送り出した自分を、責めたりしないだろうか。
誰にも会えない。もう二度と。
その考えが頭の中を一周した瞬間、喉の奥で何かが切れた。
「う、あ……っ」
声が出た。堪えようとしたのに、止まらなかった。枕に口を押しつけても、くぐもった声が漏れて、肩が震えて、息が続かなくなっても泣き続けた。
「お母さん……お母さん、ごめん、ごめんなさい」
誰にも聞こえないと思うと、余計に声が大きくなった。
「ひなた、ごめん……けんた、ごめんね。うち、帰りたい、帰りたかよ、ねえ、帰りたい……!」
言葉は途中から崩れて、意味のない音になった。喉が痛くなって、目が腫れて、枕が湿って重くなっていく。
それでも、泣くのをやめられなかった。何を失ったのかをやっと体が理解して、それを全部外に出そうとしているみたいだった。
どれくらい泣いたのか分からない。
嗚咽の間隔が少しずつ空いて、息が引きつったまま鎮まっていき、気づいた時には、まぶたが重くて開けていられなくなっていた。蝋燭の火が遠くで揺れていた。
潮の匂いのする部屋で、私はそのまま眠っていた。
あーあ、かわいそうですね。




