第3話 港町に転生!
僕は釣りは好きだけど海が嫌いです、ベトベトになるので
草の匂いがした。
目を開けると、空が高かった。雲が流れていて、背中の下では湿った草がひんやりしている。
しばらく動けずにいて、それから脚に手を伸ばした。ちゃんとある。熱さはもうなくて、ただ、思い出そうとすれば思い出せるところに、まだある感じがした。
体を起こすと、膝丈の草が茂った原っぱの真ん中だった。立ち上がって見回しても、人影はない。ただ、街道らしい白い筋が丘の向こうへ延びていて、その先に、石の壁のようなものが見えた。
壁の手前には、黒い点が連なっていた。
人だ、と気づいた途端に足が動いていた。街でも村でもいい、とにかく人のいる場所に行きたかった。誰かに会えば、少なくとも今が夢かどうかくらいは分かる。
走ってみて、自分の体が軽いことに驚いた。靴の底が草を蹴るたびに、思ったよりずっと遠くまで体が運ばれていく。息が切れる前に街道に出て、そのまま行列の最後尾まで駆けた。
行列は荷馬車や旅装の人たちで、私の前には大きな荷を背負った男の人が二人と、毛皮の外套を着た一団がいた。
毛皮の人たちの腰には剣や杖が下がっていて、頭に角のある人も、尻尾のある人もいたけれど、周りは誰も気にしていない。私は膝に手をついて息を整えながら、それをなるべく見ないようにした。見たら、また頭が追いつかなくなる気がした。
壁は近くで見ると思っていたより高く、門の脇に槍を持った兵士が二人立っている。列は少しずつ進んでいて、前の人が札のようなものを見せては通っていく。
私は札なんて持っていない。
財布の代わりに、ポケットに小さな革袋が入っていた。中で硬貨が鳴る。あの神様が言っていた「お金も少し」というのは、これのことらしい。使えるのかどうかも、まだ分からない。
行列が進むたびに、門に近づいていく。前の毛皮の一団が通り抜けて、私の番が来た。
「次。身分証かギルド証を」
兵士は三十ほどの男の人で、日に焼けた顔をしていた。私が黙っていると、顔を上げて、もう一度言った。
「なければ、出身と目的を聞く。一人か?」
「あ……はい。一人です。あの、身分証は、持っとらんくて」
しまった、と思ったけれど、兵士は方言には何も言わなかった。私の頭から足元までを一度だけ見て、眉を少し寄せた。
「この辺りの子じゃないな。荷物は」
「ありません」
「連れは」
「いません」
兵士は隣の兵士と目を合わせた。隣の人が小さく首を振る。悪い意味ではなさそうだった。
「親とはぐれたのか」
「……そんなところです」
嘘ではない。もう親には会えないのだから、はぐれたと言っても間違いではない。そう考えたら、喉の奥がまた熱くなったので、慌てて唇を噛んだ。
兵士は何も言わず、私の顔をしばらく見ていた。それから脇の小屋に向かって顎をしゃくった。
「通っていい。ただ、身分がないままだと宿も取りにくいし、仕事にも就けない。落ち着いたら、冒険者ギルドか役所で登録してもらえ。港の通りを下っていけば、広場に出る」
「いいんですか」
「いいも何も、子どもを門の外に立たせておくわけにいくか。ほら、行け」
私は頭を下げたけれど、声が出なかった。二度目に下げた時に、やっと「ありがとうございます」と言えた。兵士は面倒くさそうに手を振って、次の人を呼んだ。
門をくぐった瞬間、音が押し寄せた。
石畳を転がる荷車の車輪、物売りの掛け声、鍛冶屋らしい金属の音、どこかで笑っている子どもの声。頭の上には色とりどりの旗が渡してあって、通りの両側には、見たことのない形の看板が並んでいた。魚の絵が描かれた店もあった。
人が多い。
それも普通の人だけではなく、全身に鎧をつけた人や、大きな杖を背負った人や、肩に鳥を乗せた人が、当たり前のように歩いている。ここは本当に、あの神様が言っていた剣と魔法の世界なのだと、ようやく体が理解し始めた。
少し歩いて、足が止まった。
道の先に、潮の匂いがあった。
鼻の奥に、濃い、湿った匂いが入ってくる。忘れようがない匂いで、ふるさとの朝にも同じものがあった。通りは緩やかに下っていて、建物の切れ間に、青い色が見え始めている。
見たくない。
それなのに足は止まらなくて、坂を下りきったところで、視界が一気に開けた。
港だった。石の岸壁がずっと続いて、背の高い帆柱を立てた大きな船が何隻も泊まっている。その向こうに、遮るもののない海が広がっていた。
その瞬間、脚が熱くなった。
「あ……」
吸おうとした息が、途中で引っかかった。
岸壁に打ち寄せる波の音がやけに大きく聞こえて、船腹が軋む音がそこに重なる。
胸が詰まって、吸っても吸っても肺に入ってこない。
指先が痺れてきて、膝が勝手に折れた。
石畳に手をついた。
冷たいはずなのに、何も感じなかった。
落ち着け、ここは陸だ、と頭では分かっている。
でも体は聞かない。
喉が鳴るばかりで、涙だけが先に出てきた。
通りかかる人の足音が、遠くなったり近くなったりしている。
「おい」
低い声が、頭の上でした。
顔を上げると、エプロンを着た大柄な男の人が、私の前にしゃがんでいた。
四十代の終わりくらいに見える。腕が丸太のように太くて、頬に細い傷があり、片手には野菜の入った籠を提げていた。
「息」
それだけ言って、男の人は私の背中に大きな手を当てた。
「吐け。ゆっくり」
言われたとおりに吐いた。吐ききる前に咳き込んだけれど、男の人は手を離さなかった。
もう一度吐いて、少し吸って、また吐いた。それを何度か繰り返すうちに、指先の痺れが引いていって、波の音もただの音に戻ってきた。
「……すみません」
「いい」
男の人は籠を地面に置き、私の腕を取って立たせた。力は強いのに、乱暴さはなかった。
「一人か」
「はい」
「泊まる所は」
「ありません」
男の人は私の顔を見て、それから海のほうを一度だけ見た。何かを察したのか、何も考えていないのか、表情からは分からなかった。
「来い」
籠を拾い上げて、そのまま歩き出す。私は迷ったけれど、ほかに行く場所もなかったので、その大きな背中を追った。
港から一本入った路地に、木の看板を掲げた古い宿があった。「潮待ち亭」と書いてある。
男の人は扉を肩で押し開けて、私を中に入れた。薄暗い食堂には誰もいなくて、昼の仕込みの途中らしい鍋が、奥の竈で湯気を上げている。
私を椅子に座らせると、男の人は黙って奥へ行き、木のコップに水を汲んで戻ってきた。続けて、皿に半分に切ったパンと、湯気の立つ野菜のスープを置く。
「食え」
「あの、お金は」
「余りだ」
男の人は私の目を見ずに言って、籠の野菜を取り出して調理台に並べ始めた。
スープを一口飲むと、塩気が舌にしみた。体の中心が、じんわりと温かくなっていく。私は匙を持ったまま、少しのあいだ動けなかった。
次話から毎週水曜日投稿です。




