第2話 神との邂逅
跳ね起きた。
息が吸えず、かひゅっと喉が鳴るだけで空気が入ってこない。心臓が肋骨の内側を殴るように打っていて、背中も首も服が張りつくほど汗で濡れていた。
脚が熱い。削られていく。腰まで上がってくる。
「あ、ああっ、いやっ」
両手で太ももをつかんだ。指に触れたのは布の感触と、ちゃんと厚みのある脚だった。膝も、足首も、爪先もある。動かそうとすると、そのとおりに動いた。
それでも熱さだけは、まだ骨の中に残っていた。
しばらく自分の脚を握りしめたまま、肩で息をしていた。やっと顔を上げると、見たことのない場所にいた。
床は薄く光る白で、壁は見当たらない。天井も、どこまで続いているのか分からなかった。霧の中の待合室のようで、少し離れたところに、ぽつんと椅子が二脚置いてある。
私は、死んだはずだった。
ボートが来て、水に落ちて、日向の声が聞こえて、手を放した。あれは夢ではなかったと、脚が言っている。
「死んだ……? ここ、あの世ってこと? うち、ほんとに」
声が裏返って、自分でも情けないほど震えていた。立とうとしたけれど膝に力が入らず、床に手をついた。冷たくも温かくもない。
「あ、起きた」
背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。
椅子のひとつに女の人が座っていた。
いつからいたのか分からない。二十代の後半くらいに見えて、長い髪を後ろで適当にまとめ、膝の上に束ねた紙を広げている。服は白っぽいけれどゆったりしていて、神々しいというより、休日の図書館にいそうな人だった。
「おはよー。水ノ瀬あかりさん、で合ってるよね」
「……はい」
「よかった。間違えると面倒なんだよね」
面倒、という言い方に、ほんの少しだけ冷静さが戻ってきた。この人が誰なのかは分からないけれど、少なくとも泣いている私を前に、慰める気はないらしい。
「あの、ここは」
「死後の待合室、みたいなもの。で、あなたは死にました。ボートのスクリューで。覚えてるでしょ?」
そう言われた途端に、脚が熱くなった。私は口を押さえてうつむき、込み上げたものを飲み込んだ。女の人は紙をめくりながら、私の様子を見ていた。心配する顔でも、面白がる顔でもなかった。
「あなたは、あの……神様、ですか」
「まあ、そういうのだと思ってくれていいよ」
軽いな、と思った。思ったけれど、悪い人にも見えなかった。優しい人でもなさそうで、こちらを害する気配はないものの、味方かどうかも分からない。分かるのは、この人にとって私の死は大きな出来事ではない、ということだけだった。
「それで本題ね。あなたには、これから異世界に行ってもらいます」
「……は?」
「異世界。剣と魔法の。ああいう世界があるの」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんで私が」
「んー、気まぐれ?」
あまりにあっさり言われて、言葉が出なかった。
「死に方がけっこう派手だった人を、たまに送ってるんだよね。あなたもそのひとり。理由はそれだけ」
「それだけって……私は、何も悪いことしとらんのに。落ち度なんか、なかったとに」
「うん、なかったね。向こうがお酒飲んでたから」
その言い方は、事実を読み上げているだけだった。
「うちの、日向は。あの子はどうなったんですか。ボートは、船長さんは」
「さあ。そこまでは見てないや」
「見てない、って」
「私が見てるのは、死んだ後の人だけだから」
喉の奥が熱くなった。怒鳴りたかったのに、相手は怒鳴って何かが変わる相手には見えなかった。それが一番悔しかった。
「……戻れないんですか。家に」
「それは無理」
即答だった。慰めの言葉も、ためらいもなかった。
私は膝を抱えて、しばらく何も言えなかった。母が味噌汁を温めていた台所と、弟が笑った顔が浮かんで、目の奥が痛くなった。声を出すとまた泣いてしまいそうで、歯を食いしばっていた。
女の人は急かさなかった。紙を一枚めくって、また一枚めくって、それだけだった。
「……行かなかったら、どうなるんですか」
「さあ? どうなるんだろうね。私も知らない」
本当に知らない、という顔だった。
私は顔を上げて、もう一度自分の脚を見た。ちゃんとある。熱さはまだ残っていて、たぶんこの感覚は、消えてくれない。
ここで終わりなのかと思った。日向の顔が最後で、それで全部が終わるのかと。そう考えると、不思議と、それは違う気がした。もし母に聞けたなら、せっかく機会があるなら行きなさいと言うんじゃないか、という気がした。
「……行きます」
声はまだかすれていた。
「お、決まった? 話が早くて助かる」
女の人は紙をまとめて立ち上がり、私の前まで来てしゃがんだ。
「そのまま送ると、向こうだと一日もたないから、ちょっと丈夫にしといたよ。言葉も通じる。お金も少し持たせる。あと、あなたの経験に合う力ね。水関係。使い方は最初から分かるようにしてあるから」
「水の、魔法ですか」
「そう。あなた、水が好きでしょ。ちょうどいいじゃん」
好き、のところだけ、少し引っかかった。水に落ちて死んだ私に、この人は水の力をくれるのか。けれど文句を言う気力は、もう残っていなかった。
「見た目はそのままだけど、髪はおまけ」
言われて、肩にかかった髪をつまんだ。毛先が、見慣れた黒ではなく、薄い水色をしていた。
「……なんですか、これ」
「向こう仕様。気にしなくていいよ」
気にするなと言われても、気になった。けれど聞き返すより先に、足元の白い床が、ふっと薄くなった。
「あ、もう時間だ。春の港町に落とすから。じゃあね、いってらっしゃーい」
「ま、待ってください、まだ聞きたいことが」
最後まで言えなかった。白い光が膝のあたりから体を包んで、女の人が手を振るのが見えたところで、私の視界はほどけた。
僕は汽水域での釣りが好きです




