第5話 朝
目を開けると、窓の厚い布の隙間から細い光が差していた。
朝になっていた。
いつ眠ったのかも、夢を見たのかも覚えていない。起き上がろうとして、まぶたが重いのに気づいた。指で触れると腫れていて、唾を飲み込むと喉がひりついた。
卓の上の水差しから木のコップに水を注いで飲み、残りで顔を洗うと、少しだけ頭がはっきりした。
昨日の夜の声は、下まで聞こえていたんじゃないか。
そう思うと扉を開けるのが怖くなった。けれど、お礼も言わずに部屋に閉じこもっているわけにはいかない。靴を履いて、きしむ階段を下りた。
食堂には、昨日と同じ男の人がいた。調理台の前に立って何かを刻んでいる。私が階段を下りきる前に、包丁の音が止まった。
「あの、おはようございます。昨日は、本当に」
「座れ」
言い終わらないうちに言われて、私は口をつぐんだ。男の人は顎で食堂の隅の卓を示した。
卓の上には、もう皿が並んでいた。焼いたパンと、薄切りの燻製肉を挟んだ卵料理、それから湯気の立つ茶色いスープ。誰かが来るのを知っていたみたいに、全部が温かかった。
椅子に座って、パンをちぎった。昨日のスープより、塩気が弱い気がした。喉が腫れているのを分かって、味を調整してくれたのかもしれない。聞けば分かることなのに、聞けなかった。
男の人は何も言わないまま、調理台に戻って野菜を切り始めた。声のことにも、目のことにも触れなかった。昨日よりほんの少し、置かれた皿の音が優しい気がした。気のせいかもしれない。それでも、そのことにまた涙が出そうになって、私は慌ててスープを飲み込んだ。
皿が空になってから、立ち上がって頭を下げた。
「ごちそうさまでした。昨日から、ご飯も部屋も、ありがとうございます。何かお礼がしたいです。お金は少しならあるので、宿代も」
「いい。落ち着くまで休め」
「でも、何もしないのは」
「休め」
取りつく島がなかった。私は一度口を閉じ、思い切って聞いた。
「どうして、こんなによくしてくれるんですか。私、何も持ってないのに」
包丁が止まった。男の人はこちらを見なかった。まな板の上の根菜を見たまま、何か言いかけるように口が少し動いて、そのまま何も出てこなかった。しばらくして、また包丁が動き出した。
答えないんだ、と分かった。答えられないのか、答える気がないのかは分からない。けれど、聞かれて困っているように見えたので、それ以上は聞かなかった。
休めと言われても、何もせずにいたら、昨日の夜が戻ってくる気がした。体を動かしていたかった。
「じゃあ、せめて料理を手伝わせてください。野菜を切るだけでも。包丁なら、使えます」
男の人はようやく顔を上げて、私を見た。眉が寄っていて、断る言葉を探しているのが分かった。私は引かずに、まっすぐ見返した。
「……皮むきだけだ」
「はい」
渋々、という声だった。男の人は顎で調理台の端を示し、薄い木の盤と小ぶりの包丁を置いた。
最初は籠いっぱいの根菜だった。皮をむいて、切る。次は玉ねぎのような野菜で、目にしみて、涙が出ても言い訳になるのがありがたかった。
それから、塊の肉が出てきた。筋を落として、一口の大きさに切り分ける。男の人は何も言わず、ときどき横目で私の手元を見ていた。
手を動かしている間は、何も考えずにいられた。包丁が盤を叩く規則正しい音が、体の中の静かなところにだけ響いていた。
肉の籠が空になって、次に男の人が奥の木箱から出したものを見て、私の手が止まった。
魚だった。
鱗の大きな、白身らしい魚が三匹、木の盆に並んでいる。まだ目が澄んでいて、えらの縁が赤く、今朝漁師が持ってきたものなのだろうと分かった。丸い目が天井を見ていた。
鼻の奥に、魚の匂いが届いた。潮と、血と、鱗の匂い。港で嗅いだものと同じだった。
脚が熱い。
包丁を握った手が動かない。指先が冷たくなって、盤の上の魚が滲んだ。男の人が横から「無理なら」と言いかけたのが、聞こえた気がした。
違う、と思った。
昨日から、海のことを考えるたびに脚が熱くなる。魚を見ても、潮の匂いを嗅いでも、同じことになるのだとしたら、私は水産学部に入った意味も、将来の夢も、今までの人生も、全部いっしょに捨てることになってしまう。海に殺されたのではない。殺されたのは、酔っ払いの船のせいだ。魚には何の罪もない。
ここで止まったら、本当に全部失う。
息を一度、深く吐いた。包丁を持ち直して、一匹目の魚を盤に載せ、左手で頭を押さえた。
腹に刃を入れて、尾のほうへ軽く引く。内臓を指で外して、血合いを洗う。骨に沿って刃を寝かせて、三枚に下ろす。手が勝手に動いた。指は震えていたのに、包丁の角度は一度も狂わなかった。頭を落とし、中骨を外し、皮を引く。
魚の目から視線をそらさなかった。そらしたら、そこで負ける気がした。
二匹目、三匹目と続けて、最後の身を盤の端に揃えて置いた時、息がやっと戻ってきた。気づけば、背中に汗をかいていた。
男の人は、私が切り終えた身を手に取り、指で押して、切り口を見て、少しだけ眉を上げた。
「……いい型だな」
短い一言だった。その言葉を聞いた途端、喉の奥がぎゅっと狭まった。
骨に沿って刃を滑らせろ。力は要らない。魚が教えてくれる。
小学生の頃、釣ってきたアジを台所で捌く私の後ろに立って、父がそう言ったのを思い出した。大きな手が私の小さな手を包んで、一緒に包丁を持ってくれた。初めて自分で三枚に下ろせた日の夜は、嬉しくて、何度も母に見せた。
あの手の感触が、今この指に残っている。
視界が滲んだ。鼻の奥がつんとして、目の縁に熱いものが溜まっていく。
だめだ、と思った。
ここで泣いたら、涙が魚の身に落ちる。市場で、漁師さんが朝一番に上げてきた魚だ。命をもらって料理にする食材の上に、自分の涙を落とすのは、違う。研究室でも、父にも、そう教わった。
私は唇を噛んで、天井を見上げた。まばたきを止めて、息を細く吐く。奥歯に力を入れて、涙が引くのを待った。男の人は何も言わずに、盤の上の身を木の皿に移して、鍋の前へ運んでいった。
「ありがとうございます」
やっと声が出た。男の人は振り向かずに、小さく「ん」と言った。
私は洗った手を布で拭いて、空になった盤を軽く洗い、次の仕事を待った。
魚を捌いたあとの手の匂い、あれどうやったら落ちるんですかね。




