第9話 兄は、言っていない
門をくぐって、最初に気づいたのは、誰もこちらを見ないことだった。
王都では、皆がわたしを見て、見なかったふりをした。
ここでは、誰も見ない。ただ、通り過ぎていく。
カルネイドの領都は、坂の上にあった。
道の両側に、間口の狭い店が詰まっている。看板の代わりに、木の板を吊るしている店が多い。板には絵と、文字が書いてあった。
文字は三種類あった。この国の字と、丸みのある字と、角ばった字だ。同じ品物の名を、三通りに書いてあるらしい。
人が多い。荷を担いだ男が、肩をぶつけながらすれ違っていく。
その全員が、何か喋っていた。
わたしは読もうとして、やめた。
昨日の痛みが、まだ目の奥に残っている。
やめてみると、街の見え方が変わった。
誰も、わたしを珍しがらない。
肌の色の違う男が果物を積んでいる。頭に布を巻いた女が銅貨を数えている。子どもが二人、互いの言葉が通じないまま、身振りだけで喧嘩をしていた。
この街では、通じないことが珍しくない。
通じない者同士が、それでも取引をしている。指を三本立て、首を振り、板に数字を書いて突きつけ合う。声を出しているのに、声で通じていない。
王都の広間で、あれだけの人が喋っていて、誰にも何も通じていなかったのと、どちらが変なのだろう。
馬車の窓に肘をついて、ノエルが呟いた。正面に回る余裕がなかったらしく、横顔だった。それでも読めた。
「ここは、妙な土地でございますね」
辺境伯の館は、坂を上りきったところにあった。
石造りで、飾りがほとんどない。塔が二つ、壁が厚い。城に近い建物だ。
風が強い。門をくぐる手前で、外套の裾が持っていかれそうになった。頬に当たる風が、王都のそれより硬い。砂を含んでいるのだと、あとで分かった。
門の前で馬車が止まり、扉が開いた。
ヴァイスが待っていた。手を貸すでもなく、ただそこに立って、こちらが降りるのを見ている。
降りると、地面が固かった。石畳ではなく、突き固めた土だった。
館の者が十数人、並んでいた。
ヴァイスが振り返り、彼らに向かって何か言った。背中しか見えない。
それから、こちらへ向き直った。
「セレーヌ・ヴィオレだ。今日から、この館の者になる」
わたしの正面で、そう言った。
彼はそこで一度切って、館の者たちのほうへ首を回した。
もう一度、何か言う。今度も背中だ。
並んだ者たちの反応で、それが分かった。
全員が――全員が、体の向きを変えた。
わたしのほうへ、正面から。
彼は「聞こえない」と説明していない。
説明していたら、こうはならない。人は、聞こえない相手だと知ると、まず気の毒そうな顔をする。次に、大きな声を出そうとする。それから、諦めて隣の者に話しかける。
この人たちは、そうしなかった。
ただ、体の向きを変えた。荷を持っていた者は荷を置いてから。背の高い者は少し腰を落として。
言われた通りにやっている、という顔ではなかった。もっと前からやってきた者の動き方だった。
彼が何を言ったのか、わたしには読めない。
けれど、言ったことの結果は目の前にあった。
十八年、わたしを紹介する言葉はいつも同じだった。この子は耳が聞こえませんの。ですからわたくしが。
その一文が付くと、人は必ずわたしの後ろを見る。継母を見る。
ここでは、誰も後ろを見なかった。
部屋に通された。
二階の南向きで、窓が三つある。
王都の自室には、窓が一つしかなかった。
わたしは窓のそばに立った。
午後の光が、床の半分まで届いている。
この明るさなら、部屋のどこに立っても、人の唇が読める。
卓の上に、燭台が置いてあった。
枝が三つある。
三本。
わたしはその燭台に、しばらく手を触れていた。
偶然だろう。この土地の燭台が、たまたま三枝なのだろう。
そう思うことにした。
思うことにして、それでも指は燭台から離れなかった。真鍮の枝は冷たく、根元のところだけ、蝋が薄く固まって残っている。使われている燭台だ。
夜になった。
荷を解き終えて、ノエルが下がった。
母の手鏡を、窓辺に置いた。柄の銀が、蝋燭の光を鈍く返している。
寝台に入っても、目が冴えていた。
静かだった。
わたしにとっての静けさとは、床が震えないことだ。この館の床は、厚い石の上に木を張ってある。人が歩いても、震えがほとんど伝わってこない。
王都の家では、誰かが階段を上れば分かった。
ここでは分からない。
わたしは起き上がって、窓辺に立った。
中庭に、灯りがあった。
松明が二本、壁の受けに差してある。
その下に、二人。
一人は年配の男だった。背が低く、痩せていて、脇に何か抱えている。板のようなもの。帳面かもしれない。
抱え方が変わっていた。胸に押しつけるのではなく、手のひらを下にして、下から支えている。落とさないためではなく、傷めないための持ち方だった。
もう一人は、ヴァイスだった。
距離は、二階の窓から中庭までぶんある。遠い。
けれど松明が、二人の顔を正面から照らしていた。
風が吹いて、炎が傾いた。傾いても、光は顔に当たり続けている。
受けの位置がいいのだ。あの壁の松明は、中庭に立つ人間の顔を照らすように付けてある。
読める。
わたしは窓枠に手を置いた。
年配の男が、何か言った。
長い。二度うなずくような動きを挟んで、また続ける。
ヴァイスは聞いている。腕を組み、顎を引いて、聞いている。
この人は、人の話を最後まで聞く。十二日でそれは分かった。途中で口を挟むところを、一度も見ていない。
やがて彼が顔を上げた。
唇が動く。
「兄は、言っていない」
わたしは、窓枠を握った。
彼の唇は、まだ動いている。速くない。彼はいつも速くない。
「言っていないことを、言ったことにされた」
年配の男が、抱えていた板を持ち直した。
何か答える。うつむいているから読めない。
ヴァイスがもう一度、口を開いた。
「五年だ」
それだけ言って、松明のほうへ顔を向けた。
炎が、彼の頬に赤い影を作っている。
十二日間、一度も見せなかった顔だった。
彼は喋るとき、いつも相手の目を見る。
今は、火を見ていた。
年配の男が一歩近づいて、その肩に手を置きかけて、置かずに下ろした。
その顔が、上がった。
窓のほうへ。
わたしは身を引いた。壁に背中がぶつかる。石の冷たさが、寝衣を通して肩甲骨に届いた。
しばらく、そうしていた。
もう一度覗いたときには、中庭に誰もいなかった。
松明だけが、二本、燃えていた。
寝台に戻っても、眠れなかった。
兄。
この人には、兄がいたのか。
いた、と言うべきなのだろう。彼は「言っていない」と言った。過去のことだ。五年前のことだ。
言っていないことを、言ったことにされた。
この国で、それが何を意味するか、わたしは知っている。
三人いれば、真実になる。声に出されたものだけが本物になり、書かれたものは控えにすぎない。誰かが「言った」と言い、三人がそれを聞いたと言えば、言っていないことは言ったことになる。
覆す方法はない。
控帳に何が書いてあっても、声が勝つ。四百年前に一度この国が割れて、それからずっとそうなっている。
五年だと、あの人は言った。
五年、同じことを言い続けて、まだ何も変わっていないということだ。
この土地に来て最初に読んだ言葉が、それだった。
窓の外で、松明が一本消えた。
もう一本は、朝まで燃えるのだろう。
三日後、わたしはこの人と婚礼の宣誓を交わす。




