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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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第8話 形が見えて、意味にならない

 関を越えた最初の宿で、唇が読めなくなった。


 動いているのは分かる。形も見える。

 意味にならない。


 関所は、街道が谷を抜けるところに石を積んで作られていた。

 石の目が粗く、隙間に苔が詰まっている。何百年も、ここに積まれたままなのだろう。

 門は二重で、間に広い庭がある。荷車が十台以上停まり、人がその間を縫って歩いていた。


 わたしは馬車の窓から、それを見ていた。


 商人らしい男が、役人に何かを訴えている。

 彼の唇はよく見えた。角度もいい。光も十分だ。


 なのに、読めない。


 唇が横に大きく開き、すぐ丸くなる。母音の並びが、この国の言葉と違う。ぱ、ば、まの形は同じなのに、その前後が繋がらない。

 単語の切れ目が分からない。切れ目が分からなければ、意味の塊を作れない。


 わたしは十八年、唇の形と意味を結びつけて生きてきた。

 その紐が、この庭では切れていた。


 母の言葉を思い出す。知らない言葉は、形が見えても意味にならない。

 教わったとき、わたしは八つだった。八つのわたしには、それが何のことか分からなかった。王都の外に言葉があると思っていなかったからだ。

 母は、いつか要ることを知っていたのだろうか。



 ヴァイスが役人と話していた。


 彼は今日も、相手の正面に立っている。

 けれど彼の口の動きも、途中から読めなくなった。


「――の荷は、こちらで」


 そこまでは分かった。次から、崩れた。

 彼が使っている言葉が、この国のものではない。


 同じ人間の唇なのに、言葉が変われば別のものになる。

 六日間、わたしはこの人の唇だけは読めた。それが、たった一つの確かなことだった。それが今、庭のざわめきの中で、他の全部と同じになった。


 役人が首を振る。ヴァイスが同じ言葉を、今度は短く区切って言い直した。区切ると、わずかに読める気がする。それでも意味にはならない。

 やがて役人が書き付けに何か記した。ヴァイスがそれを受け取り、確かめてから懐に入れる。


 彼が役人の肩を叩いて、こちらへ歩いてきた。


 馬車の扉を開け、正面に立ち、身を傾ける。


「通る。少しかかる」


 この国の言葉に戻っていた。読めた。


 わたしは指を一本立てた。分かった、という合図だ。ノエルにしか通じないと知っていて、それでも立てた。

 彼は扉を閉めて戻っていく。


 膝の上で、手を握った。



 関を抜けてからも、道は続いた。


 景色が変わった。木が低くなり、幹が太くなる。風が強い土地の木の生え方だ。

 畑の畦が石で組まれている。王都の畑は土を盛るだけだ。ここでは石を積む。冬に土が凍るからだと、後で聞いた。


 道すがら、人とすれ違うたび、わたしは読もうとした。

 やめればいいのに、やめられない。目に入った唇を読むのは、息をするのと同じことになっている。十八年やってきたことを、一日で止められはしない。


 読める者と、読めない者がいた。

 この国の言葉を話す者は読める。そうでない者は読めない。同じ道を、両方が歩いている。


 午後じゅう、それをやっていた。


 夕方近く、額の奥が痛み始めた。


 目の裏を、細い針で押されるような痛みだ。

 こうなることは知っている。長く読み続けると、必ずこうなる。


 母は「半刻」と言った。

 休まずに読み続けられるのは、それくらいだと。それ以上は、目が拾っても頭が繋がなくなる。繋がらないものを無理に繋ごうとすると、痛みが来る。


 母は、その痛みを知らなかったはずだ。母には耳があった。

 それなのに知っていた。わたしを何年も見ていて、こめかみを押さえる回数を数えていたのだろう。


 今日は、朝からずっと読んでいた。半刻どころではない。


 わたしは目を伏せた。



 馬車が止まった。


 顔を上げると、扉が開いていた。

 ヴァイスが立っている。正面に。


 彼は何か言いかけて、わたしの顔を見て、止まった。


 それから、扉の上枠に手を伸ばした。

 巻いてあった帳を、下ろした。


 薄暗くなった。


 外の光が遮られ、彼の顔が影に沈む。唇の谷が黒く潰れて、形が分からなくなった。


 彼はまだ何か言っている。

 わたしには、何も見えない。


 善意だった。

 顔色の悪い人間を見たら、日を遮ってやる。誰でもそうする。


 この人は、わたしの世界を閉じた。


 悪意でこれをやる人間は、たぶんいない。

 王都でも、何度もあった。眩しいでしょうと言って窓掛けを引かれる。うるさいでしょうと言われたことはない。うるさいのは、わたしには関係がないから。

 良かれと思って閉じられた扉が、いちばん開けにくい。



 わたしは手を伸ばした。

 伸ばした手が、途中で止まりかける。押し上げれば、この人の親切を突き返すことになる。

 十八年、そういうことをしてこなかった。突き返せば、次から気を遣われなくなる。気を遣われなくなれば、扱いはもっと悪くなる。


 それでも、押し上げた。


 光が戻る。

 ヴァイスの顔が、また見えるようになった。


 彼は帳を見て、わたしの手を見て、それから自分の手を見た。


 三つを順に見て、止まった。


 彼の唇が動く。


「――すまん」


 それだけだった。


 言い訳をしなかった。良かれと思ったとも、気が利かなかったとも言わない。

 彼は帳を巻き直して留め具に掛け、こちらへ向き直った。今度は正面から。


「陽が落ちたら、灯りを入れる」


 速くない。一語ずつ。


「暗いと、困るな。――分かるか」


 喉の奥が詰まって、わたしは紙を出せなかった。代わりに、帳の留め具に指を触れた。

 触れて、それから彼の顔を見た。それで通じたらしい。


 彼はそれ以上何も言わずに扉を閉め、幌のほうへ戻っていった。

 それきり、彼が帳に触れることは、一度もなかった。



 夜、夜営になった。


 宿場のない区間で、街道の脇に幕を張る。護衛が火を焚き、その周りに人が集まった。

 火の熱が届く。顔の片側だけが熱くなり、反対側は冷えていく。


 額の痛みは、まだ残っていた。


 ノエルが毛布を持ってきて、正面に回ってから口を開いた。


「よろしいですか。お顔の色が」


 わたしは掌を上に向けた。それから、こめかみを二度、軽く叩いた。

 合図ではない。合図にはない動きだ。


 ノエルはそれを見て、何か察したらしい。毛布を掛けて、何も聞かずに離れていった。



 火の向こうで、男たちが話していた。


 読める者と、読めない者が混ざっている。

 わたしは目を閉じた。


 閉じても、痛みは引かない。


 半刻。

 わたしに使える時間は、一日のうち半刻だ。


 朝から晩まで人が喋る場所で、半刻ぶんだけ。

 残りの時間、わたしは目の前で何が起きているかを知らない。


 王都では、それでよかった。知ったところで、使い道がなかったからだ。



 目を開けたとき、遠くの丘に灯りが見えた。


 いくつも、いくつも集まっている。

 あんなに灯りの多い場所を、王都を出てから見ていない。


 護衛の一人が、こちらを指して何か言った。

 背中を向けていたから、読めなかった。


 けれど、指の先を見れば分かる。


 カルネイド。

 十二日かけて来た、わたしの行き先だ。

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