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「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


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第7話 その他大勢

 三日目で、気づいた。


 この男は、誰に話しかけるときも、必ず一度立ち止まる。


 馬車を降りて水を飲むとき、御者と何か話す。そのとき彼は、御者の斜め後ろから声をかけない。回り込んで、前に立ってから口を開く。

 わたしはそれを、窓の隙間から見ていた。


 街道は、王都を出て三日で景色が変わった。

 畑が減り、雑木が増える。石畳は途切れ、土の道になった。土の道は震え方が違う。石畳の震えは細かく硬いが、土は鈍く、腰の下でうねる。夕方になると轍が深くなり、その揺れで顎が上下した。


 昼はほとんど馬車の中にいた。

 窓の外に見えるものは、日ごとに減っていった。人の顔が減り、屋根が減り、しまいには畑の畦だけになる。読むものがない土地というのが、この世にはあるのだと知った。

 ノエルは膝の上で手を重ねたまま、正面を見ている。顔色が悪い。

 馬車に酔う質なのだと、十五年で知っている。彼女はそれを一度も口にしたことがない。

 紙に書いて渡した。『窓を開けましょうか』。ノエルは受け取って、少し考えてから、下に書き足して返してきた。『大事ございません』

 わたしは窓を開けた。ノエルは何も言わなかった。


 宿場に着くと、ヴァイスは必ず一度、馬車のところへ来た。


 用件は毎回短い。彼はもともと、言葉を多く使わない。


「三刻で発つ」

「今夜は冷える。毛布を出させる」

「明日は関だ」


 そのたびに彼は、扉の横から声をかけない。扉を開けて、こちらの正面まで来て、身を傾ける。

 夜になると、彼は必ず灯りを持っていた。持った灯りを、自分の顔の下に来るように構える。


 わたしはそれを、四日目で数えた。

 六回。六回とも同じだった。


 六回のうち一度も、彼は先に喋り始めなかった。こちらの目がこちらへ向くまで、口を開かない。

 誰かがそれを教えたのだろうか。教わったにしては、迷いがなさすぎる。


 五日目、雨が降った。

 彼は幌の下からわざわざ出てきて、濡れながら扉の前に立ち、こう言った。


「川が出た。回り道をする。二日、余計にかかる。――分かるか」


 外套の肩から水が落ちていた。前髪が額に貼りついている。

 彼は返事を待って、わたしが頷くのを見てから、幌の下へ戻っていった。


 わたしは膝の上で、手鏡の柄を握っていた。

 雨の日に、幌から出てくる必要はない。幌の下から御者に言わせればいい。御者がノエルに伝え、ノエルがわたしに伝える。この国の誰もがそうする。

 この男は、そうしなかった。



 その夜、宿場に着いた。


 街道沿いの、石と木でできた宿だ。一階が酒場になっている。

 わたしの部屋は二階の奥だった。窓から、階下の裏庭が見下ろせる。


 階下の床から、細かい震えが上がってくる。酒場が混んでいるのだろう。人の多い床は、休みなく震えている。

 眠れずに窓辺に立っていると、裏庭に灯りが動いた。


 ヴァイスと、御者だった。


 馬の脚を見ている。二人とも屈んで、灯りを近づけていた。御者が何か言う。ヴァイスは屈んだままだから、顔は見えない。


 やがてヴァイスが立ち上がった。膝の泥を払いもしない。

 立ち上がって、御者のほうへ体を向けた。


 ――回り込んだ。


 御者は馬の脇に立っていて、ヴァイスから見れば斜め後ろだ。そのまま話せばいい。距離は三歩もない。

 彼は三歩歩いて、御者の正面に立った。灯りを、自分の顔の下に構えた。


 口を動かした。


 御者は一度まばたきをして、それから答えた。ごく普通のやり取りに見えた。



 わたしは窓から離れた。


 離れて、また戻った。


 裏庭では、宿の主人が出てきていた。ヴァイスが何か払っている。宿代だろう。

 主人は太った男で、酒場の湯気で顔が赤い。ヴァイスは彼にも回り込んだ。灯りを構えた。


 荷運びの少年が桶を持って通りかかった。ヴァイスが呼び止める。

 少年の正面に立った。灯りを構えた。身を傾けた。



 六回ではなかった。


 全員だった。


 この男は、宿の主人にも、御者にも、桶を持った子どもにも、まったく同じことをしている。

 相手が誰であっても、一度立ち止まる。回り込む。顔に光を当てる。返事を待つ。


 わたしにしたことは、特別ではなかった。



 窓枠に手を置いた。木が湿っていて、指の腹が冷たくなった。


 喉の奥に、何か重いものが落ちてきた。

 期待していたわけではない。期待していないと、ずっと自分に言い聞かせていた。言い聞かせていたということは、期待していたということだ。


 あれは、わたしのためではなかった。

 この人はただ、そういう歩き方をする人だ。

 三つの隣国と接する土地で、言葉の通じない相手と何年も取引をすれば、そうなるのかもしれない。相手が分かったかどうかを、必ず確かめる。確かめなければ、荷が動かない。商いの作法だ。


 王都の回廊で、わたしはそれを何かだと思った。

 何かだと思ったことが、恥ずかしかった。


 わたしは窓に額をつけた。硝子が冷たい。



 それから、遅れて、別のことが頭に上がってきた。


 特別ではない。

 それは、こういうことだ。


 この男にとって、わたしは、その他大勢と同じだった。


 御者や、宿の主人や、桶を持った少年と、同じ扱いだった。


 わたしは窓枠を握った。


 十八年。

 誰も、わたしをその他大勢に入れてくれなかった。


 人形姫は、人の数に入らない。だから広間の隅に置かれ、宣誓の場から外され、目の前で本音を言われる。

 気の毒に、と皆が言う。かわいそうに、と妹が言う。この子の代わりに、と継母が言う。

 特別に憐れまれ、特別に無視され、特別に扱われてきた。

 十八年、わたしはずっと特別だった。


 この男は、わたしを特別扱いしなかった。


 それが、どういうことなのかを、指が痛くなるまで窓枠を握って考えていた。


 裏庭の灯りが消えた。

 湿った木の匂いがする。雨が上がったあとの、土と苔の匂いだった。王都では嗅いだことのない匂いだ。



 部屋に戻ると、ノエルが寝台の端に腰かけていた。

 わたしを見て、慌てて立ち上がる。


「よろしいですか」


 一拍。


「厨房で、耳に入れたことがございます。この先の関から向こうは、言葉が変わるそうで」


 わたしは首を傾けた。話して、という合図になる。


「六つほど混じっていると。隣国の言葉、その北の言葉、山向こうの言葉。カルネイドの市には、みな来るそうでございます」


 六つ。


 わたしは紙に書いた。


『どの言葉も、口の形は違いますか』


 ノエルは長いこと紙を見ていた。それから顔を上げた。


「……あたくしには、分かりかねます」


 分かるはずがない。耳のある人に、そんなことを考える理由はない。


 わたしは袂から手鏡を出した。

 柄の銀が、蝋燭の光を鈍く返している。


 鏡を顔の前に立てて、自分の口の形を見た。

 母がそうさせたように。


 わたしが読めるのは、この国の言葉だけだ。

 形が見えても、意味にならないものがある。母は最初にそう教えた。


 明日、関を越える。

 その先に、わたしの読めない言葉が六つ待っている。

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