第6話 勝手に申し上げます
ノエルは、卓を回り込んでからわたしの正面に立った。
それから、口を開いた。
「あたくしも、参ります」
暖炉の熱が、まだ床を伝ってくる。灰は白く、縁のところに文字の形が残っていた。
わたしは掌を下に向けた。
だめ、という意味だ。
ノエルの顎が、わずかに上がった。この人が引かないときの顔だった。
「よろしいですか」
一拍。彼女は必ずそこで区切る。
「あたくしには、王都に残しているものがございません。夫はおりませんし、子もおりません。妹の家には、盆に一度顔を出すだけでございます」
わたしは紙を引き寄せた。
『十二日かかります。冬になれば、半年帰れません』
ノエルは紙を読み、顔を上げた。
「存じております。厨房で、道中の宿場まで数えてまいりました」
数えてきた。この人は、わたしが止めることを見越して、数えてから来た。
『わたしはもう、伯爵家の娘ではなくなります。あなたを雇うのは辺境伯家です。あちらに、あなたの居場所があるとは限りません』
書きながら、指が冷えていくのが分かった。
わたしは、この人に何かを背負わせることに慣れていない。
十五年、背負われ続けてきた。それでも、こちらから頼んだことは一度もない。頼めば、断られるかもしれない。断られたら、その次はもう頼めない。
だから先に、こちらから道を塞ぐ。塞いでおけば、断られたことにはならない。
ノエルは二枚目も最後まで読んだ。読むのが遅い人だ。字を目で追うとき、唇がわずかに動く。彼女自身は気づいていない。
「お嬢様」
顔を上げた彼女の唇は、いつもより大きく形を作っていた。
「あたくしは十五年、お嬢様の代わりに口を開いてまいりました。お茶が要る、寒い、痛い、やめてほしい。全部、あたくしの口から出て行きました」
ノエルの指が、前掛けの端を握っている。
「一度も、勝手には申し上げませんでした。必ずお伺いを立ててからにしてまいりました」
握った指が、白くなった。
「今度だけは、勝手に申し上げます」
十五年で、はじめてだった。
この人がわたしの合図に逆らったのは、これが最初だ。
喉の奥が、熱くなった。
喉に指を当てる。震えていない。声は出ていない。
出ていないのに、熱いものが上がってくる。そういうこともあるのだと、はじめて知った。
わたしは掌を下に向けようとして、途中で止めた。
止めた手が、行き場をなくして卓の上に落ちる。
ノエルはそれを見て、深く腰を折った。それきり顔を上げずに部屋を出て行った。
扉が閉まる震えが、床から膝に届いた。
翌日、母の部屋を開けた。
十二年、閉じたままだった。
継母は一度も使わず、誰にも使わせなかった。この家で唯一、あの人が触れない場所だ。
扉を押すと、埃が舞い上がった。窓から入る光の中で、白い粒が渦を巻いている。
空気が乾いていた。鼻の奥が痛くなる乾き方だった。
寝台には布が掛けられ、その形だけが盛り上がっている。
わたしはそこには近づかなかった。
あの寝台の左側に、蝋燭台が置いてあった。一本きりの蝋燭が。今もあるのかどうか、確かめる気にならない。
化粧台の抽斗を開けた。
櫛。空になった香油の瓶。畳まれた手巾が三枚。
いちばん奥に、手鏡があった。
柄の銀は黒ずみ、縁の飾りが一箇所欠けている。母は毎日これを使った。使いすぎて、握るところだけ模様が擦り切れていた。
鏡を覗くと、埃の膜越しに自分の顔があった。
母はこの鏡で、自分の口の形をわたしに見せた。二枚のうちの一枚が、これだ。もう一枚がどこへ行ったのかは知らない。
わたしはそれを袂に入れた。
背後で床が震えた。ノエルが入ってきたのだと分かる。歩幅が狭く、拍が細かい。
彼女は化粧台の前まで来て、わたしの手元を見た。
手鏡を見た。
ノエルの唇が、開きかけた。
わたしは顔を上げた。
開きかけた唇は、そこで止まっていた。形になる前に、閉じた。
何を言おうとしたのか、読めなかった。
形になる前のものは、読めない。
「……お荷は、これだけでよろしゅうございますか」
ノエルはそう言い直した。
言い直したということは、最初の一つを飲み込んだということだ。
わたしは、手鏡を握る手に力を入れた。それが返事になった。
三日目の朝、屋敷の門に馬車が並んだ。
空が高く、風が乾いていた。石畳に落ちた木の葉が、風のたびに同じ方向へ寄っていく。
継母は玄関の段の上に立ち、扇を持たない手を胸に当てていた。
通りの向かいに、いくつも窓がある。この時刻、どの窓にも人がいる。
そこは見送りの姿勢を取る位置で、涙を拭うふりをするのに都合がいい。実際、継母は指の先で目尻に触れた。
「お体を大切になさいね」
その唇は、そう動いた。
わたしの正面ではなく、斜め上を向いて。近所の窓に向かって言っている。
リリアは出てこなかった。
二階の東の窓が、一度だけ揺れた。
布が動いただけかもしれない。風もあった。
わたしはその窓を、馬車に乗るまで見ていた。二度目は、揺れなかった。
門の外に、見慣れない車列が停まっていた。
馬車が三台。荷車が二台。護衛が六人。どれも王都の作りではない。
車輪の幅が広く、輪帯が厚い。ぬかるみを踏むための車輪だ。荷車の幌には縄が三重に掛かっていて、結び目がどれも同じ形をしている。同じ人間が全部を結んだのだろう。
先頭の馬の横に、あの男が立っていた。
カルネイド辺境伯ヴァイス。
外套は、あの日と同じものだ。泥が乾いて白く粉を吹いている。
彼はわたしを見つけると、手綱を近くの男に渡した。
それから、歩いてきた。
馬の陰から出て、荷車を回り込み、日の当たる場所まで来て――そこで止まった。
わたしの正面。
朝日が、彼の顔に真横から当たる位置。
彼は身を傾けて、こちらの目の高さに合わせた。
「十二日かかる」
速くない。一語ずつ。
「――分かるか」
わたしは、頷いた。
彼はそれ以上何も言わず、踵を返して先頭の馬へ戻っていった。
十二日かかる。
それだけの用件を伝えるために、この男は馬の陰から出て、荷車を回り込み、日の当たる場所まで歩いてきた。
そこまでする用件だとは、誰も思わないだろう。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を噛み、その震えが座面から背中へ上がってくる。
膝の上に手を置いた。袂の中で、母の手鏡が腿に当たっている。
向かいの席で、ノエルが背筋を伸ばして座っていた。
膝の上で両手を重ね、まっすぐ前を見ている。彼女は馬車に酔う質だ。それを言ったことは一度もない。
十二日。
この人と、十二日。
窓の外を、王都の壁が流れていく。壁が終われば、次は畑だ。畑が終われば、知らない土地になる。
わたしは十八年、この壁の内側から出たことがない。
壁の内側では、わたしの言葉は継母の口から出た。外側では、どうなるのだろう。
同じかもしれない。
同じでないかもしれない。
どちらにしても、十二日かけて確かめに行くことになる。




