第5話 扉の隙間から
「ここで、待っていなさい」
継母の唇がそう動いて、扉が閉まった。
半分だけ。
大広間の手前にある控えの間で、わたしは立っていた。
椅子はある。座れとは言われていない。四年ぶりに父が呼び、呼んだ先が大広間で、そこに入れてもらえない。
扉の隙間は、掌ひとつぶんだった。
その隙間から、細い光の帯が控えの間の床に落ちている。人が横切るたび、帯が一度切れる。切れた回数で、向こうに何人いるかが分かった。
六人。父と継母を除けば、四人。
その隙間から見えるのは、大広間の右奥だけだ。
父の背中が半分。継母の裾。それから、見知らぬ男が三人。
三人。
わたしは扉の枠に手を添えた。木は乾いていて、ささくれが指の腹に引っかかる。
もう少し隙間に近づけば、角度が変わる。父の顔が見えるかもしれない。
息を止めて、半歩寄った。
靴底が石を擦る。擦った震えが自分の足に返ってきて、そこで初めて、音が出たかもしれないと気づく。
わたしは自分の立てる音を知らない。知らないものには、用心のしようがない。
見えたのは、父の横顔だった。
顎から下と、唇の右半分。左側は扉の陰に落ちている。
これでは足りない。人の唇は左右で動きが違う。半分だけでは、形にならない。
父の唇が動いた。
「ヴィオレ伯爵家の」。そこで唇が影に入る。「を」。また影。「カルネイド」。「に」。
落ちる。ほとんど落ちる。
わたしは扉の枠を握った。指先が白くなるまで握って、それから力を抜いた。
角度は変えられない。
これ以上寄れば、隙間から光が漏れて向こうに気づかれる。気づかれれば扉は閉まる。閉まれば、何も残らない。
だから、待った。
人は同じことを二度言う。
宣誓とはそういうものだ。聞き逃されては困るから、証人のほうへ向き直って、はっきりと、もう一度言う。
声を信じる国の作法が、そこだけわたしに味方をする。
父の体が、わずかに正面を向いた。
証人のほうへ向き直ったのだ。おかげで顎が動き、唇の左側が影から出た。
二度目。
「ヴィオレ伯爵家の長女セレーヌを、カルネイド辺境伯家へ嫁がせる」
全部、読めた。
証人の三人が、順に口を動かす。承知した、と言っているのだろう。
書記の羽根ペンが、控帳の上を走っている。
書かれても、それは控えにすぎない。三人の耳が聞いた。それだけで、わたしの残りの人生の行き先が決まる。
それで、終わりだった。
父は一度も、こちらを見なかった。
継母も見なかった。わたしがこの扉の向こうにいることを、二人とも知っている。知っていて、呼ばない。
呼ぶ必要がない。
わたしの婚姻に、わたしの声は要らない。要らないものを、わざわざ部屋に入れることはない。
喉が締まった。
喉に指を当てる。母がそうさせたように。
震えている。
声が出ていたかもしれない。分からない。出ていたとしても、この扉の厚みなら向こうには届かないだろう。
届かないと分かっているものを、体は勝手に出そうとする。
妹の言葉が、まぶたの裏に浮かんだ。
お姉さまは、いいなあ。何も聞かなくていいんだもん。
聞かなくていい。
聞かなくていいから、呼ばれなくていい。呼ばれなくていいから、いなくていい。
そういう順番で、わたしはここに立っている。
十八年かけて、誰かがそう決めたわけではない。
誰も決めていないから、誰にも文句が言えない。制度というのは、そういうふうにできている。
扉が開いた。
光が一度に流れ込んで、目が眩んだ。継母が手招きしている。
大広間に入ると、床が広い。人の少ない広間は震えが遠く、自分の足音だけが返ってくる。
証人の三人は、もう帰り支度をしていた。一人がこちらを見て、すぐ目をそらす。用は済んでいる。彼らにとって、この部屋にわたしが入ってきたことに意味はない。
父が、こちらを向いた。
四年ぶりだった。
父の髪はずいぶん白くなり、頬が削げていた。四年で人はこんなに変わるのかと思った。
父の目が、わたしの顔を見た。
見て、それから、そらした。
唇は、動かなかった。
一度も動かないまま、父はわたしの横を通り過ぎ、書斎のほうへ歩いていった。
通り過ぎるとき、外套の裾が、わたしの手の甲に触れた。
それが、四年ぶりに父から受け取ったものだ。
「三日後にご出立ですのよ」
継母は上機嫌だった。
「先方も急いでいらして。冬の前に東へ入らないと、道が閉じてしまうそうですから。せわしないこと」
継母は、わたしの正面には立たない。
斜め前に立って、扇を持たない手で裾を払いながら話す。読めることもあれば、読めないこともある。今日は読めた。読めてしまった。
「良かったこと。あなたのような娘に、辺境伯夫人の座ですもの」
継母は裾を払う手を止めて、こちらを見た。珍しく、まっすぐに。
「向こうでも、そうなさい。あなたは黙って座っていればよろしいの。困ったことがあれば、手紙をおよこしなさい。わたくしが代わりに申し上げますから」
十二日かかる場所へ嫁ぐ娘に、継母はそう言った。
代わりに申し上げる。十二日かけて、往復で一月かけて、それでもこの人はまだ、わたしの口でいるつもりでいる。
あなたのような娘。
継母が「この子」ではなく「あなた」と呼ぶのは、機嫌のいいときだけだ。
夜、わたしは紙に向かった。
書きたいことは、いくらでもあった。
わたしはあの部屋に入れてもらえなかったこと。二度目の宣誓を扉の隙間から読んだこと。父が一度も口を開かなかったこと。四年ぶりに触れたのが外套の裾だったこと。
書くと、言葉はいくらでも出てくる。
話すときは三語で息が切れるのに、書けば十行でも二十行でも続く。わたしの中には、それだけのものが溜まっている。
一枚書いて、二枚書いた。
三枚目の途中で、手が止まった。
これを、誰が読むのだろう。
書いたものは、この国では控えにすぎない。声が本物で、紙は補助だ。
わたしの言葉は、生まれたときから全部、補助のほうにある。
継母は読まない。父は読まない。妹は読めるけれど、読んで泣いて、それで終わりだ。泣いた妹を慰めるのは、いつもわたしの役目になる。
わたしは三枚を揃えて、暖炉に入れた。
紙は縁から丸まって、黒くなって、消えた。
熱が顔に届く。床にも届く。足の裏が温かい。
燃えるものには、音があるのだと聞いたことがある。
どんな音なのか、わたしは知らない。
知らないまま、三枚が灰になるのを最後まで見ていた。灰は白くて、縁のところだけ、まだ文字の形が残っていた。
振り返ると、ノエルが戸口に立っていた。
いつからそこにいたのか、分からない。背後に立たれると、わたしには何も分からない。
彼女は暖炉のほうを見た。灰になった三枚を見て、それからわたしを見た。
ノエルはいつも、部屋に入る前に扉を二度叩く。震えで知らせるためだ。今夜は叩かなかった。
何か言おうとして、口を開きかけている。




