↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「どうせ聞こえない」と、あなた方は私の目の前で全部おっしゃいました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/30

第5話 扉の隙間から

「ここで、待っていなさい」


 継母の唇がそう動いて、扉が閉まった。

 半分だけ。


 大広間の手前にある控えの間で、わたしは立っていた。

 椅子はある。座れとは言われていない。四年ぶりに父が呼び、呼んだ先が大広間で、そこに入れてもらえない。


 扉の隙間は、掌ひとつぶんだった。

 その隙間から、細い光の帯が控えの間の床に落ちている。人が横切るたび、帯が一度切れる。切れた回数で、向こうに何人いるかが分かった。

 六人。父と継母を除けば、四人。


 その隙間から見えるのは、大広間の右奥だけだ。

 父の背中が半分。継母の裾。それから、見知らぬ男が三人。


 三人。


 わたしは扉の枠に手を添えた。木は乾いていて、ささくれが指の腹に引っかかる。

 もう少し隙間に近づけば、角度が変わる。父の顔が見えるかもしれない。


 息を止めて、半歩寄った。

 靴底が石を擦る。擦った震えが自分の足に返ってきて、そこで初めて、音が出たかもしれないと気づく。

 わたしは自分の立てる音を知らない。知らないものには、用心のしようがない。



 見えたのは、父の横顔だった。


 顎から下と、唇の右半分。左側は扉の陰に落ちている。

 これでは足りない。人の唇は左右で動きが違う。半分だけでは、形にならない。


 父の唇が動いた。


「ヴィオレ伯爵家の」。そこで唇が影に入る。「を」。また影。「カルネイド」。「に」。


 落ちる。ほとんど落ちる。

 わたしは扉の枠を握った。指先が白くなるまで握って、それから力を抜いた。


 角度は変えられない。

 これ以上寄れば、隙間から光が漏れて向こうに気づかれる。気づかれれば扉は閉まる。閉まれば、何も残らない。


 だから、待った。


 人は同じことを二度言う。

 宣誓とはそういうものだ。聞き逃されては困るから、証人のほうへ向き直って、はっきりと、もう一度言う。

 声を信じる国の作法が、そこだけわたしに味方をする。



 父の体が、わずかに正面を向いた。

 証人のほうへ向き直ったのだ。おかげで顎が動き、唇の左側が影から出た。


 二度目。


「ヴィオレ伯爵家の長女セレーヌを、カルネイド辺境伯家へ嫁がせる」


 全部、読めた。


 証人の三人が、順に口を動かす。承知した、と言っているのだろう。

 書記の羽根ペンが、控帳の上を走っている。

 書かれても、それは控えにすぎない。三人の耳が聞いた。それだけで、わたしの残りの人生の行き先が決まる。


 それで、終わりだった。


 父は一度も、こちらを見なかった。

 継母も見なかった。わたしがこの扉の向こうにいることを、二人とも知っている。知っていて、呼ばない。


 呼ぶ必要がない。

 わたしの婚姻に、わたしの声は要らない。要らないものを、わざわざ部屋に入れることはない。



 喉が締まった。

 喉に指を当てる。母がそうさせたように。

 震えている。


 声が出ていたかもしれない。分からない。出ていたとしても、この扉の厚みなら向こうには届かないだろう。

 届かないと分かっているものを、体は勝手に出そうとする。


 妹の言葉が、まぶたの裏に浮かんだ。

 お姉さまは、いいなあ。何も聞かなくていいんだもん。


 聞かなくていい。

 聞かなくていいから、呼ばれなくていい。呼ばれなくていいから、いなくていい。


 そういう順番で、わたしはここに立っている。


 十八年かけて、誰かがそう決めたわけではない。

 誰も決めていないから、誰にも文句が言えない。制度というのは、そういうふうにできている。



 扉が開いた。


 光が一度に流れ込んで、目が眩んだ。継母が手招きしている。


 大広間に入ると、床が広い。人の少ない広間は震えが遠く、自分の足音だけが返ってくる。

 証人の三人は、もう帰り支度をしていた。一人がこちらを見て、すぐ目をそらす。用は済んでいる。彼らにとって、この部屋にわたしが入ってきたことに意味はない。


 父が、こちらを向いた。


 四年ぶりだった。

 父の髪はずいぶん白くなり、頬が削げていた。四年で人はこんなに変わるのかと思った。


 父の目が、わたしの顔を見た。

 見て、それから、そらした。


 唇は、動かなかった。


 一度も動かないまま、父はわたしの横を通り過ぎ、書斎のほうへ歩いていった。

 通り過ぎるとき、外套の裾が、わたしの手の甲に触れた。


 それが、四年ぶりに父から受け取ったものだ。



「三日後にご出立ですのよ」


 継母は上機嫌だった。


「先方も急いでいらして。冬の前に東へ入らないと、道が閉じてしまうそうですから。せわしないこと」


 継母は、わたしの正面には立たない。

 斜め前に立って、扇を持たない手で裾を払いながら話す。読めることもあれば、読めないこともある。今日は読めた。読めてしまった。


「良かったこと。あなたのような娘に、辺境伯夫人の座ですもの」


 継母は裾を払う手を止めて、こちらを見た。珍しく、まっすぐに。


「向こうでも、そうなさい。あなたは黙って座っていればよろしいの。困ったことがあれば、手紙をおよこしなさい。わたくしが代わりに申し上げますから」


 十二日かかる場所へ嫁ぐ娘に、継母はそう言った。

 代わりに申し上げる。十二日かけて、往復で一月かけて、それでもこの人はまだ、わたしの口でいるつもりでいる。


 あなたのような娘。

 継母が「この子」ではなく「あなた」と呼ぶのは、機嫌のいいときだけだ。



 夜、わたしは紙に向かった。


 書きたいことは、いくらでもあった。

 わたしはあの部屋に入れてもらえなかったこと。二度目の宣誓を扉の隙間から読んだこと。父が一度も口を開かなかったこと。四年ぶりに触れたのが外套の裾だったこと。


 書くと、言葉はいくらでも出てくる。

 話すときは三語で息が切れるのに、書けば十行でも二十行でも続く。わたしの中には、それだけのものが溜まっている。


 一枚書いて、二枚書いた。

 三枚目の途中で、手が止まった。


 これを、誰が読むのだろう。


 書いたものは、この国では控えにすぎない。声が本物で、紙は補助だ。

 わたしの言葉は、生まれたときから全部、補助のほうにある。


 継母は読まない。父は読まない。妹は読めるけれど、読んで泣いて、それで終わりだ。泣いた妹を慰めるのは、いつもわたしの役目になる。


 わたしは三枚を揃えて、暖炉に入れた。


 紙は縁から丸まって、黒くなって、消えた。

 熱が顔に届く。床にも届く。足の裏が温かい。


 燃えるものには、音があるのだと聞いたことがある。

 どんな音なのか、わたしは知らない。

 知らないまま、三枚が灰になるのを最後まで見ていた。灰は白くて、縁のところだけ、まだ文字の形が残っていた。



 振り返ると、ノエルが戸口に立っていた。


 いつからそこにいたのか、分からない。背後に立たれると、わたしには何も分からない。

 彼女は暖炉のほうを見た。灰になった三枚を見て、それからわたしを見た。

 ノエルはいつも、部屋に入る前に扉を二度叩く。震えで知らせるためだ。今夜は叩かなかった。


 何か言おうとして、口を開きかけている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。