第4話 閉められなかった扉
「カルネイド。……東の、あの田舎ですのよ」
継母の唇が、はっきりとそう動いた。
わたしは階段の踊り場で足を止めていた。
東の小間の扉は、半分ほど開いている。閉め忘れたのではない。この家の者は、わたしが階段を通ることを知っている。知っていて、閉めない。
継母は窓を背にして座っていた。逆光になる位置だ。ふつうなら読めない。
けれど部屋の東側にもう一つ窓があり、そちらの光が横から顔を洗っている。おかげで唇の谷に影が落ちない。
わたしは手すりに手を置いたまま、動かずにいた。
リリアが何か言った。こちらに背を向けている。読めない。
背中は、いつも何も教えてくれない。肩の上下と、指の動きだけが残る。妹の指は、椅子の肘掛けを爪で引っ掻いていた。
継母が答える。
「仕方のないことでしょう。ラングレー家から持ってこられたお話ですもの。あちらの顔を潰すわけには参りません」
継母は指を三本立てた。数えている。
「東の関を押さえている家ですよ。麻も、香も、鉄も、あそこを通ります。そこと縁が結べるなら、うちの借財など」
言いかけて、継母は口を閉じた。借財の話は、この家では声にしないことになっている。
リリアの肩が上下した。長く息を吸って、吐いている。
やがて彼女が身をよじり、横顔がこちらへ向いた。
「十二日もかかるところなんて、いや」
妹の唇は、王都の娘らしく速い。それでも三分の二は取れた。
「あたし、王都から出たくない。冬は道が閉じるって聞いたわ。半年も戻れないのよ。お母様、あたしそんなの死んじゃう」
継母が身を乗り出し、娘の膝に手を置く。
二人の距離が近くなり、リリアの顔が半分隠れた。
「……あたし、悪くないよね?」
最後の一行だけ、はっきり読めた。
リリアはそう言って、母の肩に額を押しつけた。
悪くない。
妹は、まだ何もしていない。何もしていないのに、そう言った。
人は、これからすることの許しを、先に取りに行くことがある。
継母の唇が、娘の髪越しに動く。
「もちろんですよ。あなたは何も悪くありません」
それから継母は、扇を開いた。
銀糸の入った、夜会用のものだ。昼間の室内で使うものではない。
扇は継母の口元をぴたりと覆った。
そこから先は、白い布と骨組みしか見えない。
わたしは手すりを握ったまま、しばらく待った。
扇は下りなかった。
淑女は扇で口元を隠してよい。
それが作法だからだ。もともとは笑い声を隠すためのもので、本音を隠すためのものではないと、教本には書いてある。
教本は、扇の内側で何が起きるかを知らない。
わたしは階段を下りた。石の段は冷たく、靴底越しに冷えが上がってくる。手すりの木は、握った手のかたちに脂が染みていた。何代ぶんの手が、ここを握ってきたのだろう。
読めなかったものは、追いかけない。追いかけたところで届かない。それも母が教えたことだ。
けれど今日は、扇の白がまぶたの裏に残った。あの扇が下りるまで、二人が何を話していたのか。
わたしはそれを、六段目まで数えてから、頭の隅へ押しやった。
廊下の角で、リリアと鉢合わせた。
妹はわたしを見ると、目を丸くして、それから顔いっぱいに笑った。
彼女は昔から、わたしを見るとまず笑う。そういう子だ。
「お姉さま」
リリアはきちんと正面に立った。この家で、わたしの正面に立つのはノエルと妹だけだ。
ただし妹は、立つだけでいい子になったつもりでいる。口の速さは変えない。
「お加減はどう? ずっとお部屋にいらしたでしょう。あのね、あたし、心配してたのよ」
速い。半分ほど落ちる。
それでも、この娘の言うことは大体いつも同じだから、落ちた分は埋められる。
リリアの視線が、一度、わたしの背後へ滑った。
誰もいない廊下だ。見るものはない。
人は嘘を言う前に、一度どこかを見る。
妹は昔から、右上を見る。八つの年、割った花瓶を侍女のせいにしたときも、同じ方向を見た。あのとき妹は六つで、侍女は暇を出された。
妹はそれを覚えていない。覚えていないから、同じところを見る。
「あのね、お母様がおっしゃってたのだけど。ううん、なんでもない」
言いかけて、やめた。
やめたことを取り繕うように、リリアはわたしの手を取った。妹の手はいつも温かい。わたしの手はいつも冷たい。妹はそれを握って、いつも同じことを言う。
「お姉さまの手、冷たい」
それから、無邪気に続けた。
「お姉さまは、いいなあ。何も聞かなくていいんだもん」
妹の唇は、そこだけゆっくりだった。
わざとではない。心から言うとき、人の口はすこし遅くなる。
わたしは手を引かなかった。引けば、妹が困る。困った妹は母のところへ行き、母はわたしのところへ来る。そういう順番になっている。
だから握られたまま、少しだけ首を傾けた。妹はそれを頷きと受け取って、満足して離した。
走り去る足音が、床を細かく震わせていく。
その震えが消えるまで、わたしは廊下に立っていた。
妹は嘘をついたわけではない。
何も聞かなくていい。妹にとって、それは本当に羨ましいことなのだろう。母に叱られる声も、社交界の陰口も、婚約者の不機嫌な声も、聞かずに済む。
そういう場所にいるのは、さぞ楽だろうと。
握られていた手の、温もりだけが残っていた。それもすぐに冷えた。
夜、ノエルが正面に回ってから口を開いた。
「よろしいですか」
ノエルは一度そこで区切る。答えを待つ間を、必ず置く。
「厨房で、少し耳に入れたことがございます」
わたしは掌を上に向けた。話して、という意味になる。
「カルネイド辺境伯様のことでございます。あちらでは、ずいぶん噂が」
ノエルは言葉を選んでいる。選んでいるときの彼女は、唇を一度結んでから開く。
「東の番犬、と。あとは、冷酷辺境伯、とも」
わたしは紙を引き寄せて、書いた。
『会った者は』
ノエルが紙を読み、顔を上げた。
「それが。誰も、お会いしたことはないそうで」
誰も会っていない。
会っていないのに、皆が知った顔で語る。三人が同じことを言えば、この国ではそれが本当になる。噂は法ではないけれど、作られ方はよく似ている。この街では、そういうことがよく起きる。わたしのこともそうだ。人形姫と呼ぶ者のうち、わたしと口をきいた者は一人もいない。
わたしはもう一度、あの回廊を思い出した。
あの男は、わたしの横をすり抜けられた。すり抜けて、それで終わりだった。
そうしなかった。一歩下がって、回り込んで、光の当たる場所に立った。
冷酷という言葉の意味を、この街の人々は取り違えているのかもしれない。
二日後の朝、父から呼び出しがあった。
ノエルが伝えに来たとき、彼女の唇はいつもより硬かった。硬いというのは、形を作りすぎているということだ。人は、言いたくないことを言うとき、一語ずつ丁寧になる。
支度を、と言われた。
どこへ行くのか、何のためか、誰に会うのか。今度もそれは言われない。
父がわたしを呼ぶのは、四年ぶりだった。




