第3話 目で聞きなさい
蝋燭を、三本に増やした。
二本では、足りない。
ノエルが盆を置きながら何か言った。背中越しだったので、読めない。わたしが動かずにいると、彼女は盆を置き直し、卓を回り込んで正面に来た。
「よろしいですか。……冷めないうちに、どうぞ」
十五年、この人はそうしている。
一本目の蝋燭は卓の左に、二本目は右に置く。三本目は、話す人の顔に光が当たる位置。これが揃わないと、わたしの世界は閉じる。
部屋の隅は、いつも暗い。暗がりの中で誰かが口を動かしても、それは何も動いていないのと同じだ。
夕餉のあいだ、ノエルは黙っていた。今日のことを話す言葉を、彼女も持っていない。
匙が皿に触れる感触だけが、手首を通って伝わってくる。冷めかけた麦粥は、塩が足りなかった。
窓の外はもう暗い。硝子に、蝋燭が三つ映っている。
この部屋は、屋敷でいちばん蝋を使う。継母は一度そのことを口にして、それきり何も言わなくなった。言っても届かないと思っている相手に、二度は言わない。
母のアニエスは、わたしが六つの年に死んだ。
母がわたしに教えたものは、二つある。
一つは、口の形だった。
母は鏡を二枚使った。一枚を自分の顔の横に立て、もう一枚をわたしに持たせる。同じ形を作れるまで、何日でも付き合った。
喉に指を当てさせることもあった。母が声を出すと、指の下で細かい震えが起きる。出さないと止まる。震えているあいだが「声が出ている」ときなのだと、そうやって教わった。
わたしの喉も震えた。震えているのに、それがどんな音なのかは分からない。母の顔だけが、正しいか間違っているかを教えてくれた。
わたしの口から出るものが、正しい音になっているかどうか、わたしには永久に分からない。母は分かった。母だけが分かった。
もう一つは、読むことだった。
「ゆっくり、しゃべってくださいって、お願いしなさい」
母はそう言って、わざと速く喋ってみせた。読めない。次に、ゆっくり喋った。読める。
その違いを、母は何度もわたしに見せた。
速さだけではない。横を向けば読めない。手で覆えば読めない。暗ければ読めない。二人が同時に喋れば、片方しか追えない。知らない言葉は、形が見えても意味にならない。
母はそれを、欠点として教えなかった。道具の使い方として教えた。刃物に切れる向きがあるのと同じ言い方で。
「あなたは、耳が悪いんじゃないの」
母の唇は、そのとき、ひどくゆっくり動いた。
「あなたは、目で聞きなさい」
わたしは今でも、その七文字の形を覚えている。
母が死んだ夜のことも、覚えている。
寝台のそばに、蝋燭が一本しかなかった。
誰かが節約したのか、換えるのを忘れたのか。とにかく一本だった。
母の顔は枕に沈み、こちらへ向いていなかった。首を回す力が、もう残っていない。
わたしは寝台に上がり、母の顔を覗き込む位置まで身を乗り出した。膝が布に沈む。母の額に触れた指が、思ったより熱かった。
部屋には薬草を煮た匂いが残っていた。もう誰も煮ていないのに、匂いだけが壁に染みついている。
母の唇が動いた。
わたしは身を乗り出した。
蝋燭は、母の顔の向こう側にあった。
逆光になる。唇の谷に影が落ちて、形が潰れる。
わたしは蝋燭を取ろうとした。手が届かない。寝台を降りて回り込もうとした。そのあいだにも、母の唇は動き続けている。
降りた。回り込んだ。蝋燭を掴んだ。
戻ったとき、母の口は開いたままで、もう動いていなかった。
読めなかった。
母がわたしに教えたものは二つあって、二つとも、その夜の役には立たなかった。
わたしは母の口の形を作ってみた。何度も作った。作れば分かるかもしれないと思った。
母の唇は、もう何の形も返さない。
十二年経つ。あれ以来、わたしは蝋燭を三本に増やすようになった。
三本あれば、影は消える。
あの夜、三本あれば。
母のいない家で、わたしは読み続けた。
読むものは、いくらでもあった。誰もわたしの前で口を慎まないからだ。
厨房で誰が誰の悪口を言っているか。どの侍女が辞めたがっているか。継母が父に借財の話をするとき、どこで嘘をつくか。
知っても使い道はない。使えば、読めることが知られる。知られれば、二度と読めなくなる。
証人になれない相手に何を言っても、それは記録に残らない。だから貴族たちは、わたしのいる部屋で平気で本音を口にする。扇で隠すのは、耳を持つ者同士のときだけだ。
十三の年、ラングレー侯爵邸の茶会に連れて行かれたことがある。
わたしは庭に面した長椅子に座らされ、置いておかれた。そういう扱いには慣れている。
膝の上で手を組み、庭を見ていた。日差しが強く、白い砂利が目に痛い。菓子は出されたが、手をつけると継母に見咎められるので触らなかった。
生垣の向こう、噴水のそばに、四人の男が立っていた。三人は若く、一人は白髪だった。
若い三人は、揃って白髪の男のほうを向いている。三人とも、両手を前で組んでいた。
白髪の男の唇は、この上なく読みやすかった。
速くない。省略しない。一語ずつ、粒を揃えて置いていく。万人に届くように訓練された喋り方だ。
「よく聞きなさい」
その男は、そう始めた。
「三人。三人いれば、それは真実になります」
次に、こう続けた。
「日付は、こちらで合わせます」
最後に、生垣のほうを一度も見ずに、こう言った。
「東の、あの家です」
若い三人のうち、いちばん端の男が唇を舐めた。もう一人は爪先の向きを半歩ずらした。三人目は動かなかった。
白髪の男は、それから懐に手を入れ、何かを渡した。四人は散った。
意味は、分からなかった。
東の家がどこの家か、日付を合わせるとは何のことか、十三のわたしには何ひとつ分からない。
分からないものは、意味に汚れない。だからそのまま形だけが残る。
意味の分かる会話は、意味のほうを覚えて形を忘れる。分からない会話は、形だけが残る。
わたしの頭の中には、そういう形が、いくつも仕舞われたままになっている。開けられない箱のように、ただ場所を取って、そこにある。
二日が過ぎた。
婚約が終わったあとの家は、静かだった。震えが少ないという意味だ。
人の出入りが減れば床は落ち着く。落ち着いた床の上を歩くと、自分の足音の震えだけが返ってくる。
継母は連日出かけ、リリアは部屋にこもり、父は書斎から出ない。わたしは何も言われないまま、朝と夜のあいだを歩いていた。
わたしは母の手鏡を出して、自分の口の形を見た。もう十八になる。母が教えた形は、まだ残っている。
鏡の中の唇が「かあさま」と動いた。声が出ていたかどうかは、分からない。
三日目の午後、廊下を通りかかった。
東の小間の扉が、開いている。
継母とリリアが、その中にいた。
二人とも、こちらに顔を向けていない。それでも、横顔の角度が浅い。読める。
扉を閉めようという素振りは、どちらにもなかった。




