第2話 名を持たない娘
「あんたが、ヴィオレ伯爵家の姉のほうか」
それだけだった。
男の唇は、ゆっくりと、はっきりと、その十七文字を置いていった。憐れみも、好奇も、乗っていない。荷の中身を確かめる商人の口の動きに近かった。
わたしは、自分が何を期待していたのかが分からなかった。分からないまま、答えられずにいた。
男は待った。
急かさない。視線を外さない。三つ数えるあいだ、彼はそこに立ったまま、わたしの顔を見ていた。
背後からノエルが進み出て、わたしの正面に回り込んでから口を動かした。十五年、彼女はいつもそうする。
「よろしいですか。……お嬢様に、代わってお答えいたします」
わたしは掌を下に向けた。ノエルにだけ通じる合図で、いい、という意味になる。
ノエルが男へ向き直り、何かを述べた。名乗りと、非礼の詫びだろう。背中しか見えないから、そちらは読めない。
男の返事は、こちらから読めた。
「カルネイド辺境伯、ヴァイス」
カルネイド。東の果ての土地だ。王都から馬車で十二日かかると聞いたことがある。
ヴァイスと名乗った男は、ノエルが喋っているあいだも、視線をノエルへ移さなかった。ずっとわたしの顔を見たままだった。
これは、珍しい。
わたしに用があるとき、人はノエルを見て話す。ノエルに話しかけて、ノエルから答えを受け取る。わたしは家具のように、その会話のそばに置かれている。
この男は、ノエルの声を聞きながら、わたしの顔を見ていた。
ノエルの背中が、途中で一度こわばった。話しているのに、相手の目が自分に来ない。彼女もそれに気づいたのだ。
やがて彼は一度だけ首を縦に振った。去り際、こちらへ短く口を動かす。
「邪魔をした」
外套の裾をひるがえして、回廊の奥へ去っていく。泥の跳ねた背中が、暗がりに溶けた。
それだけのことだった。
用件は済み、答えは得られ、男は行った。廊下で人に道を尋ねる。その程度の出来事だ。
なのにわたしは、彼が消えた暗がりを、しばらく見ていた。
帰りの馬車で、継母は上機嫌だった。
「まったく、話の分かる方でしたわ、ラングレー侯爵夫人は」
馬車の中は狭い。向かいに座った継母の顔は、窓から入る光でよく見える。読むには都合がいい。都合がよすぎて、聞きたくないことまで入ってくる。
「この子は喜んでいますのよ。ねえ、そうでしょう」
継母はわたしのほうを見ずにそう言った。同意を求める相手はノエルでもなく、窓の外の景色だった。
喜んでいる。そう決めたのは継母で、決めた以上それは事実になる。誰も確かめない。確かめる方法を、この家は持っていない。
わたくしが、この子の代わりに。十二年間、この人はその言い方だけでわたしを扱ってきた。
悪意ではない。継母の中では、これは献身なのだ。
証人資格を持たない者は、自分で宣誓ができない。契約も、婚姻も、相続も、すべて後見人の声を通す。だから継母は正しい。制度がそう決めている。
この国では、四百年前から、声に出された言葉だけが本物とされる。書き付けは控えにすぎず、記憶を助けるためのものだ。声と控帳が食い違えば、声が勝つ。
その理屈を、わたしは六つの頃から知っている。
耳を持たぬ者は、宣誓の場に立てない。証人にもなれない。何を見ても、何を知っていても、それは法の上では起きなかったことになる。
知ったところで、変わるものは何もない。
車輪が石を踏むたび、座面が細かく跳ねる。その震えが、腰から背骨を伝って顎まで上がってくる。目を閉じても、王都のどのあたりを走っているかは分かった。石畳が新しくなる区画では、震えが急に静かになる。
継母の唇が、また動いた。
「次はリリアの番ですわね」
異母妹のリリアは十六になる。年頃としては早くない。
けれど継母がその名を口にするとき、唇の端に力が入る。今日決まったのは、わたしの婚約が終わったことだけのはずだった。
わたしは、その言葉を読んだ。
読んだことは、顔に出さない。十八年、それだけは上手くなった。
ヴィオレ伯爵邸に着いても、父は出てこなかった。
玄関の広間を横切るとき、書斎の扉の下から灯りが漏れていた。中にいる。いて、出てこない。
最後に父と言葉を交わしたのが何年前かを、わたしは思い出せなかった。交わしていないのだから、思い出せるはずもない。
自室に戻り、上着を脱ぐ。ノエルが湯を持ってきて、正面に回ってから話しかけた。
「よろしいですか。……お夕食は、お部屋にお運びいたします」
わたしは指を二本立てた。二人ぶん、という意味だ。ノエルの目尻がわずかに下がる。この人はいつも、そこで断ろうとして、結局断らない。
窓の外で、鐘楼が動いていた。
鐘が鳴っているのだろう。夕の刻限だ。石の壁を伝って、床にかすかな震えが届く。わたしにとって鐘とは、音ではなく、足の裏に来る規則正しい波のことだった。
その鐘は、大神殿のものだ。
神は声を聞く、と神殿は教える。祈りは声に出さねば届かない。黙って祈るのは祈りではない。
だからわたしには、洗礼名がない。生まれた年、神殿は「この子は神に届かぬ」と言って名を授けなかった。十八年、わたしは家名と、母が付けた呼び名だけで生きている。
人形姫。社交界がわたしに付けた名は、そちらのほうだった。
表情が動かないから。それが半分。
もう半分は、声のせいだ。
わたしは話せる。母が、口の形を一つずつ教えてくれた。自分の声を聞いたことがないから、高さも強さも分からない。それでも六つになる頃には、短い言葉なら言えるようになっていた。
十二の年、はじめて人前でそれを使った。
広間の笑いが、床を震わせた。何を言われたのかは読めなかった。読まなくても分かった。
それきり、人前では口を開いていない。もう六年になる。
湯に指を入れる。熱い。手の甲まで赤くなるのを見てから、ようやく手を沈めた。
湯気が顔に上がってくる。硝子窓が白く曇り、外の鐘楼が滲んで消えた。
神が声しか聞かないのなら、わたしは誰に祈ればいいのだろう。
六つの年に一度だけ、母にそれを尋ねたことがある。紙に書いて渡した。母は長いこと紙を見つめて、それから顔を上げ、こう口を動かした。
「そのうち、母様が訊いておくわ」
母は、訊きに行ったまま帰ってこなかった。
今日、この街で、ひとりだけ違うことをした人間がいた。
彼はわたしの前で足を止めた。一歩下がり、回り込み、光の当たる場所に立って、ゆっくり口を動かした。
あれは、わたしのためではない。ただの確認だった。姉か妹か、それを尋ねただけだ。
分かっている。分かっているのに、湯の中で指を握ったり開いたりしていた。
指の腹が、ふやけて白くなっている。どれだけそうしていたのか、自分でも分からなかった。
窓から目を戻したとき、廊下の向こうで影が動いた。
継母と、リリア。
二人は部屋に入り、扉を閉めた。
閉めた、と思ったのは一瞬だった。
扉は、半分ほど開いたままになっている。
どうせ、聞こえないのだから。




