第1話 どうせ聞こえない
本作は全30話で完結予定です。初日は第1〜9話を、以降は毎日5話ずつ、最終話まで予約投稿します。楽しんでいただけましたら、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると励みになります。
「――セレーヌ・ヴィオレ。君との婚約を、破棄する」
ユリウス・ラングレーの唇が、そう動いた。
わたしには、それが聞こえない。生まれてから一度も、何ひとつ聞いたことがない。
ラングレー侯爵邸の広間には、秋の陽が斜めに差していた。磨き込まれた床に、証人三人の靴先が並んでいる。三人とも、爪先はユリウスのほうを向いていた。
誰ひとり、わたしのほうを向いていない。
今朝、継母はわたしの部屋の戸口に立って、こう言った。お召し替えを。それだけだった。
どこへ行くのか、何のためか、誰に会うのか。十八年、そういうものを教えられたことがない。行き先は、着いてから知る。用件は、始まってから読む。
左の高窓から入る光が、ユリウスの顔を正面から照らしている。おかげでよく読めた。彼は「破棄する」と言ったあと、指先で襟をなぞり、少し間を置いてから続けた。
「理由は、君も承知しているだろう。侯爵家の嫡男として、私は……その、世継ぎのことを、考えねばならない」
濁った言い方をするとき、彼の下唇はわずかに内側へ巻く。八年見てきたから知っている。八年のあいだに彼が正面からわたしに話しかけた回数は、片手で足りた。
わたしは何も答えなかった。答えるための道具を、この国はわたしに持たせていない。
証人のうち年嵩の一人が、退屈そうに窓の外へ目をやった。若い一人は爪を見ている。残る一人だけが、居心地悪そうに床を見つめていた。
三人。三人揃えば、それは真実になる。この国の法はそう決めている。
若い証人が、隣の年嵩の男に顔を寄せて何か言った。角度が浅く、半分しか取れない。「はやく」。「あと、いっけん」。今日はもう一件、どこかに立ち会うらしい。
証人になるのは、割のいい仕事だと聞く。耳を持って生まれてさえいれば、誰にでもできる仕事だ。
継母のマルグリットが、絹を鳴らして一歩前へ出た。音は聞こえない。裾の揺れ方で分かる。
「この子の代わりに申し上げますと、承知しております」
わたくしが。この子の。代わりに。
その三つの言葉を、継母は十二年間、一日も欠かさず使ってきた。
八年前、この婚約が結ばれたときも同じだった。父と継母が宣誓し、三人の証人が聞いた。わたしは十歳で、その日は自室で刺繍をしていた。
始まるときも、終わるときも、わたしはその部屋にいない。今日はたまたま、部屋の中にいただけだった。
書記の羽根ペンが控帳の上を走る。けれど控帳は補助にすぎない。三人の耳が聞いた。それだけで、八年続いた婚約は終わる。
声に出されたものだけが、この国では本物になる。
わたしは、その場に立っていた。
わたしの婚約が、わたしのいる部屋で、わたしを一度も通らずに終わっていく。それを、最後まで見ていた。
手続きが済むと、部屋の中の流れが変わった。
証人たちは互いに口を動かしながら扉のほうへ流れていく。継母は侯爵夫人の腕を取り、笑いの形に口を開いた。侯爵夫人が扇を広げる。ふたりの唇はその陰に隠れて、そこから先は読めなくなった。
わたしは窓際へ寄って待った。継母の用が済むまでそうするのが決まりだった。
磨いた床から、遠い足音の震えが靴の底に伝わってくる。人の多い日は、床がずっと細かく震えている。誰かが早足で歩けば、その震えは短く鋭い。老人が杖をつけば、二拍に一度、鈍く重い。
目を閉じていても、この広間に何人いるかは分かった。十四人。さっき一人減ったから、十三人。
ユリウスが、こちらへ歩いてきた。
いや。違う。わたしのほうへではなく、わたしのすぐ後ろに控えていた従僕のほうへだった。
彼は従僕に何か短く命じ、外していた手袋を押しつけた。それから両肩を上げて、大きく落とした。長い用事を終えた男の落とし方だった。
それから、わたしの正面で、こう言った。
「やっと終わった」
唇がそこで一度止まり、笑いの形にほどける。
従僕が何か返した。背中しか見えないから、そちらは読めない。
ユリウスの目が、ちらりとわたしを掠めた。掠めただけだった。
彼の唇が、また動く。
「……聞こえないなら、傷つかないだろう?」
窓の光は、まだ彼の顔を正面から照らしていた。
一音も、落とさなかった。
従僕の肩が、わずかに強張ったのが見えた。彼は答えず、手袋を胸に抱え直して下がっていく。すれ違いざま、こちらへ視線を向けかけて、そのままやめた。
三年ほど前から、この屋敷で見かける若い男だ。名前は知らない。彼のほうも、わたしの名を呼んだことはない。
けれど今、彼は肩を強張らせた。この広間で、あの言葉に体を動かしたのは、彼ひとりだった。
ユリウスは何も気づかない。悪気のない顔で伸びをして、侯爵夫人のほうへ歩いていった。
わたしは表情を動かさなかった。
動かす理由がない。動かしたところで、この部屋で読まれるのはわたしのほうだけだ。
喉の奥が乾いていた。朝から水を口にしていない。窓硝子に額を近づけると、冷たさが眉の裏まで届いた。硝子には秋の埃が薄く積もっていて、額を離すと、そこだけ丸く跡が残った。
指先が冷えている。両手を重ねて温めようとして、やめた。誰も見ていないと分かっていても、手を動かす癖はつけないほうがいい。動く手は、目を引く。
怒りは、たぶんあった。
けれど怒りというものは、外へ出す場所がなければ、内側で行き場をなくして嵩を増していく。十八年ぶんの嵩は、もうずいぶん高いところまで来ている。それだけのことだった。
やがて継母が扇を振って合図を寄越し、わたしは広間を出た。
回廊は薄暗い。窓が高い位置にあり、光は床までしか届かない。
こういう場所では、誰が何を言っても、わたしには届かない。だから足元だけを見て歩く。石畳の目地を数えながら歩くのは、六つの頃からの癖だった。
十四本目を数えたところで、視界の端に影が入った。
顔を上げる。
回廊の中ほどを、大きな影が塞いでいた。
背の高い男だった。肩幅が広く、黒い外套の裾に乾いた泥が跳ねている。長く馬に乗ってきた者の泥の跳ね方だった。左の眉に、古い傷がひとつ。
王都の男は、こういう外套を着ない。厚手で、飾りがなく、襟が高い。風の強い土地の仕立てだ。
靴も違った。踵が低く、底が厚い。石畳ではなく、土の上を歩く者の靴だった。
男はわたしの横をすり抜けようとした。
その足が、止まる。
一歩、下がる。
それから、わざわざ回り込んだ。壁際にいたわたしの、正面に。
高い位置にあった顔が、下りてくる。膝を折ったのではない。背を屈めたのでもない。ただ、こちらの目の高さに合わせて、わずかに身を傾けただけだった。
背後で、衣擦れの気配がした。侍女のノエルが追いついてきたのだと、床の震え方で分かる。彼女の歩幅は狭く、拍が細かい。
ノエルが何か言おうとして、男を見て、口を閉じた。
彼が立ったのは、高窓の光が斜めに落ちる、その一歩ぶんの明るみの中だった。
顔に、正面から光が当たる位置。
偶然で立てる場所ではない。
男が、口を開いた。
速くない。
一語ずつ、置くように。
十八年、誰ひとり、そんなことをしなかった。




