第10話 口元を隠してはならない
宣誓の場では、口元を隠してはならない。
声を偽らぬ証。そう定められている。
扇も、手も、面紗も。宣誓者は顔を晒し、正面を向き、はっきりと口を開かねばならない。
四百年かけて、この国はわたしのために、規則をひとつだけ作っていた。
婚礼は、領都の小神殿で行われた。
高い天井の、飾りのない石の建物だ。窓が大きく、南から光が入る。
王都の大神殿とは、造りがまるで違った。あちらは薄暗い。声をよく響かせるために、天井が丸く、窓が小さい。
ここは明るかった。
石の壁に、白い漆喰が塗ってある。光を跳ね返すためだろう。冬の日照が短い土地では、そうするのだと後で聞いた。
床から冷えが上がってくる。厚い石は、いつまでも夏を覚えていない。
祭壇の前に立ったとき、わたしはまずそれを確かめた。
自分の立ち位置。相手の立ち位置。光がどちらから来るか。
光は、わたしの背中から来ていた。
つまり、向かい合う相手の顔を、正面から照らす。
声詠みが進み出て、宣誓の作法を読み上げた。
彼はこちらを向いて立っている。だから読めた。
「両名は面を上げ、口元を覆わぬこと」
証人が三人、脇に並ぶ。
テオドールという名の書記官長が、控帳を開いて壁際に立った。昨夜、中庭にいた年配の男だ。彼はこちらへ会釈をして、それから帳面を胸から少し離して構えた。傷めないための構え方だった。
ノエルが、わたしの半歩後ろに立った。
わたしは宣誓ができない。
証人資格がないからだ。わたしの誓いは、代わりに立てる者の声を通す。
八年前の婚約も、そうだった。あのときは父と継母が立て、わたしは自室で刺繍をしていた。
今日は、この部屋にいる。それだけでも違う。そう思うことにした。
ノエルが一歩出た。
出て、こちらへ体を向けた。
「よろしいですか」
一拍。
この場でも、彼女はそれをやった。声詠みが待っている前で、証人が並んでいる前で、彼女は一拍置いた。
わたしは掌を上に向けた。
ノエルが向き直り、宣誓を述べた。背中しか見えない。
何を言っているのかは分からない。分からなくてもいい。あの人は、わたしが言わないことを言わない。十五年、一度もそうしなかった。
次が、ヴァイスだった。
彼が正面に立った。
三歩の距離。光は彼の顔にまっすぐ当たっている。天井の高い建物だから、影が落ちない。
彼は顎を引いて、こちらの目の高さに合わせた。この場でも、そうした。
唇が動いた。
「俺、ヴァイス・カルネイドは」
速くない。
「セレーヌ・ヴィオレを、妻とする」
読める。
「この者の身を、カルネイドの家名において守る」
読める。
「病めるときも、貧しきときも、離さぬ」
読める。
「戦において先に死なぬ。領地を売らぬ。この者を、王都へ返さぬ」
読める。読める。読める。
わたしは、まばたきをしなかった。
まばたきの一瞬で、一語落ちることがある。落ちた一語が肝心の一語であることが、これまで何度もあった。
一語も落ちない。
最初から最後まで、一つも欠けない。
こんなことは、はじめてだった。
十八年、わたしが受け取ってきた言葉は、いつもどこかが欠けていた。角度が悪い。暗い。速い。扇がある。背中を向けている。同時に二人が喋る。
欠けたところは、想像で埋めてきた。埋めれば、だいたい合う。だいたい合っていれば、生きていける。
埋めなくていい。
喉の奥が、また熱くなった。
わたしはそれを、どうすればいいのか知らない。声にすることも、顔に出すこともできない。
だから、指を握った。
爪が掌に食い込んで、そこだけが痛かった。
この人が今言ったことの中身を、わたしはほとんど考えていなかった。
守る。離さぬ。返さぬ。政略で交わされる言葉としては、どれも並のものだ。書き付けの雛形にそのまま載っている。
中身ではなかった。
全部届いた、ということだった。
声詠みが、宣誓の成立を告げた。
証人の三人が順に何か言う。
テオドールの羽根ペンが、控帳の上を走った。
式は、それで終わりだった。
人が動き出す。
証人たちが祭壇を離れ、声詠みが記録の帳面を取りに行った。ノエルは半歩下がって、目尻を押さえている。
ヴァイスは、まだ動かなかった。
彼はこちらを見たまま、その場に立っている。
証人たちの背中が扉のほうへ遠ざかる。声詠みが振り向かない位置まで行く。
それを、待っていた。
彼が半歩、前に出た。
三歩が、二歩になる。
二歩は、声を落として話す距離ではない。手を伸ばせば届く距離だ。
口が、開いた。
――音が出ていない。
分かる。喉が動いていない。頬の膨らみ方が違う。声を出すときの唇は、もっと押し出すように動く。
彼は、唇だけを動かしていた。
証人には届かない。声詠みにも届かない。
この部屋で、それを受け取れる人間は、一人しかいない。
「だから、あんたは、ここで」
そこまでは、読めた。
次の一語で、彼の唇が速くなった。
なぜ速くなったのか分からない。
言い慣れていない言葉なのかもしれない。言うつもりのなかった言葉なのかもしれない。
形が崩れた。
崩れたものは、読めない。
三語か、四語。それくらいの長さだった。
最後のほうで、下唇を軽く噛むような動きがあった。それだけが、はっきり見えた。
わたしは半歩、前に出ようとした。
もう一度言ってほしかった。紙を出す間もなかった。
ヴァイスは、こちらを見ていた。
わたしが読めなかったことに、気づいたはずだ。
彼はいつも、相手が分かったかどうかを確かめる。十二日、六回でも七回でも確かめてきた。
今度は、確かめなかった。
伝わらなかったことを知っていて、伝え直さない。
この人がそれをするのは、はじめてだった。
彼は口を閉じて、体の向きを変えた。
それきり、繰り返さなかった。
夜、館の広間で祝いの席が持たれた。
長い卓に、領内の者が並んだ。皿が運ばれ、杯が回る。
湯気の立つ肉と、酸い匂いの汁物が出た。王都では食べたことのない、羊の脂の匂いがした。
わたしは端の席で、それを見ていた。
誰も、わたしに酌をしに来ない。王都なら、辺境伯夫人の席には人が並ぶ。ここでは皆が自分の椀に向かっている。
礼を欠いているのではないらしい。卓の反対側では、ヴァイス自身が自分で杯を注いでいた。
テオドールが、卓を回り込んで正面に来た。
彼は背が低いので、こちらが座っていると、ちょうど目の高さが合う。
「奥様。書記官長のテオドール・ブランと申します」
ゆっくりだった。
彼は最初から、この速さで喋った。
「明日、書記官房へお運びくださいませ。お願い申し上げたき儀がございます」
わたしは首を傾けた。何かと問う合図のつもりだったが、彼には通じない。
テオドールはそれでも、こちらの返事を待った。待って、待って、それから自分で言った。
「控えておきましょう。……明日、あらためて申し上げます」
彼が下がっていく。
広間の窓から、中庭が見えた。
松明が二本、燃えている。昨夜と同じ場所だ。
あそこで、この人は「兄は、言っていない」と言った。
わたしはまだ、この土地で自分が何になるのかを知らない。
明日、書記官房へ来いという。
何をしに。




